以前Twitterを漁っている際に見掛けた面白いネタに、自己肯定感の測り方がありました。自己肯定感が高い人は「有能の自分が出来る事が凡夫に出来ないのは当たり前」と考え、自己肯定感が低い人は「低能な自分でも出来る事なのに皆出来ないとかおかしい」と考えるといったネタ。

 なるほど、言い得て妙である。正にその通りで、自己肯定感が低いと言うか、自分を正しく評価出来てない人って不思議と他人を見下す方へと向かうんですよ。特訓した時間、または気付きの数こそがセンスです。それらが伴ってる時点で既に有能と化している筈なのですが、本人の問題か環境の問題か、自分は駄目な奴だと思い込まざるを得ない状況に漬け込まれてしまった訳です。そんな状態に陥った人間が自己解決して自己肯定感が高い心境に成るのは至難の業なので、勘違いの呪縛から解き放ってあげる必要があります。つまり自己解決した僕は天才である。

 

 自己肯定感が高いと自分を正しく評価出来ます。これまでこれほどの事をやって来たのだから、これだけの事が出来て当然である。自信の正体でもありますね。自分の中に常に根拠を持ってる状態です。逆を言えば、出来ん物は出来んと自信を持って言える。これまでそういう習慣が無かったから出来ん物は出来ん。その習慣を取り入れる利点や無理して自己変容を求める程の価値があるか如何か。それを成した暁に齎される利益は何なのか。本筋と関係あるのか如何か。それをも正しく評価できる人こそが自己肯定感の高い人です。

 当然ながら他人の状態も正しく評価出来ます。自分より優れている人は、自分が成さなかった分野を深く掘り下げ、時間を掛けて物にしたのだからそれだけの事が出来て当然であると認める。逆もまた然りで、自分が成している事と同等の域まで達した人が居たとしたら、どれ程の課程を学び理解し物にしたかが共感できるし、それを自分より遥かに短期間で成せたならばそいつの心持ちや天才性を評価できる。鈍足な人には、何が足りないかをアドバイスしてあげられる。

 

 現状を科学的に分析できる訳ですね。因果を理解しているので、嫉妬も湧き起こらないのです。嫉妬の原因は、自己肯定感の弱さそのものであると言えます。自分を知らず、自分がして来た事を知ろうとせず、比較対象を知らず、とにかく知らない事だらけ。知らないから肯定できないのです。下関から東京まで陸路1000kmだよね!とか言われても、そんなの知らなきゃ肯定できないでしょ。知ってたら肯定できるでしょ。それと同じです。

 

 嫉妬をしてはならないのではない。そもそもの嫉妬の正体を探るのだ。何も知らないから嫉妬するのです。結果だけしか見えないから嫉妬心が湧き起こる。その人が如何にしてそこへ到達したのか、或いは如何なる代償を経て手にした結果なのか。その過程にあった努力や心境はどんなものだったのか。自他の業と徳の差は正しく認識してるか。そこの所の想像力が無いからイライラさせられるんや。

 だから僕は常日頃から考えろと言っている。知る努力をしろと言っている。知りさえすればなんて事は無いんですよ。科学には差別がありません。それそのものでしかないからです。人と揉めた時も、とにかく相手の言い分を知ろうとする事です。きちんと話が通ればこっちだって理解できるし、何かをひた隠しに教えてくれず話を打ち切ろうとする人なら、嘘吐きのレッテルと共に絶縁する事が出来る。

 

 知れば正しい判断が出来る。正しい判断が出来るから、自己肯定感が高い人間で在れる。とりあえず僕が言いたい事は、嘘吐きを直せ。ほんの些細な嘘も全て直す事。怠惰な自分がそこに在れば、ごちゃごちゃ屁理屈こねず自分は怠惰だと認める事。何故怠惰なのか原因を徹底的に探り、根本原因を自ら解決できるレベルまで説き明かす事。仕舞いには「ああ、だから自分はこうだったのか」と納得できます。納得と共に打開策が生まれます。打開策が無ければその納得は嘘です。仏教用語で顛倒夢想と言う。