着 火 点
(一)
KKは湿気た空気の中で、小さく舌打ちした。
退屈が渦を巻いて男の周辺を取り巻いているようであった。気だるげな動作で視線を前に向けなおすと、何十万回目の既視感を覚えるいつもの白い壁が鈍い光を放って、目の前に浮かび上がった。
この壁の向こうにどんな新世界が広がっているのだろうか?
冷たい平面が、KKの思惑を容赦なく遮断している。
ジジジジジ・・・
ふいに、スマホの画面が動いた。その空間だけが切り取られて細かく振動を続けている。画面にはナナセの名前が表示されている。
毎日まったく同じ時間に彼女は連絡をくれた。日常のルーティンに埋没してしまいそうなぐらい、彼女の連絡のタイミングは完ぺきだった。
「はい、今帰ったところだよ」
嘘だった。帰宅時間は今から3時間も前の事だ。
彼女の怪訝な声が鼓膜に響く。
「祝日まで残業しているの? それって完全にブラックだよ」
彼女は労働管理のスペシャリストらしく、それらしい意見を述べた。KKは頭の中で素早く時間を巻き戻して、現実との帳尻を合わせた。
3時間前・・3時間前・・・
雨の光景が脳裏に浮かぶ。小雨がいつ終わることなく降っていた。僕たちの世界は曇ったガラスの外側に小さな雨粒を張り付かせて、ゆっくりと回転していた。
ニュースは四六時中、手のひらの端末機に流れ込んでくる。テレビなんて見なくても、瞬時に世の中の情勢を知ることができる。バーチャルとリアルの境はない。あまりにもリアルすぎるバーチャル。
彼女の声が再び鼓膜に響いた。
「ねぇ・・ちょっと聞いてる? 今度の週末は絶対に出かけるからね、仕事なんて休みなさいよ」
「あの煩い爺さんがなんていうか次第だよ、土曜日のスケジュールを埋めるのが好きな人だからな」
「何よそれ」
「大正生まれの人ってこと」
「今は平成です」
「そう、間に63年分の昭和っていう時代が挟まってる」
分厚い壁に圧迫される、壁が自分の体に向かって迫ってくる。ゆっくりと軋む音を立てながら。そんなイメージがした。
彼女とは2年前から付き合っている。そして今のところは可もなく不可もなし。会えば食事をしてショッピングをして、たまに映画を見て、それから体を合わせる。その繰り返し。週末だけが、二人にとっての非日常から日常に戻れる時間だった。
衰退して朽ち果てていく地方都市で、二人はリアルを確かめ合った。いつも退屈と隣り合わせ、同じことの繰り返し。スマホの画面に映るリアルに没頭する日常。
KKは世界は閉じられていく、と肌で感じていた。地方都市に暮らす若者たちに共通する感覚。それは、閉じられたリアル。動かない日常。そして何かに揺さぶられる心の奥底。
部屋の明かりがわずかに漏れて、ここで生活している存在者がいることを自己主張していた。スマホから彼女の声が聞こえてきて、また退屈の虚像がKKの視界を斜めに過ぎっていった。
「次は植物園にでも行ってみる?」
(続く)