紀元前3世紀、大和盆地には、三輪山を至聖の地とする部族があり。ヒストリストではないですが、民族学を調べてみたりとまだやり切れていない想いがあるので深堀りしてみたいと思います。

 

この盆地は磯城郡田原本町を中心とした大きな湖で絢爛華麗なる三輪文化の大切な資源であったと想定される。そしてこの山は当時、大物主神が守っていたが、もともとは天照大御神の女神・太陽神でその湖に太陽を映すことができた。

 

この磯城(しき)というのは、現在よりもっと東の三輪山麓の地名であったと言われる。

三輪山のほど近くに石上神社(いそのかみ)があるが、磯城の本来の読み方は、(いそしろ)が正しいのでは、ないかと考えられる。このことから、考察されることは、海洋に石造建築の城があったことが想像できるとのこと。

 

これら、渡辺豊和氏の「大和に眠る太陽の都」の引用であるが

氏は、磯城という地名の重要性を説かれている。

私が幼いころよく祖父が第二次世界大戦中よりずっと前は、河内地方から大阪の堺あたりまで磯城郡と呼んでいたと言っていたことを思い出す。

つまり、三輪族の勢力は、大阪湾にまで及んでいたことがわかるのではないだろうか?

 

そして、ある時急激に水がなくなってしまうのは、人工的な大事件によるものであるらしい。

それが紀元前3世紀存在したかどうかはさだかではないとされる神武天皇が大和入りをした時である。

神武天皇は中国・朝鮮からの移民に追われ九州地方から東の楽土の噂を聞き及び、流浪の民の覚悟で当征伐に及び、三輪族を攻め落とし落城させ、豊穣の湖を枯渇させたと考えられる。その後、弥生時代の農耕文化が始まる。

 

神武天皇は磐余彦(いわれひこ)との別名も「破壊者」として恐れられたことがうかがい知れる。

氏は、最大の建造物の破壊行為が行われた地を磐余と呼び地名が存在したと言っている。

まさに、この三輪山のある桜井市には香久山のほど近い場所に磐余地区があり、地名でもない場所があり石垣が今も残り小高い丘となっている。それは、まさに安倍史跡のあたりである。

 

また、神武天皇が最高の戦力を発したのは土蜘蛛族という豪族との闘いに於いてだと言われる。その土蜘蛛族のいた地名は、忍坂と言い、現在も桜井市に存在する。

昔の人に聞き及ぶと、この辺りには、処刑場があったという人も言うので、おどろおどろしい場所があったのかもしれないゲッソリ