子どもは、遺伝子的には、親のコピーで、社会での対応力を身につける。

このコピーとは、「そっくりそのまま」というのではなく、「似通っている」という意味である。


もし、コピーでなければ、その子どもは、遺伝子の突然変異という事になる。

生物の進化は、変異の連続であったかもしれないが、無から生まれるわけではなく、環境に対する対応による変異であった。


それでは、子どもが親のコピーであるという表現は、至極自然なのに、どこか批判的な意味合いが含まれる。


親の認印だなってぐらい似たお顔の人もおられるのに。


それは、せっかくの真っ新な遺伝子に親の遺伝子を引き継がせたかのように。


守破離の法則でもあるように、まず、型がなければ型破りには、なれない。


持てる可能性を潰されてしまった子どもを「親のコピー」と言われると、親は、必然的に、その持っていた手綱を緩めるが、ただ、緩める事が本来の教育の目的であるのならば、もうひとつ物足りなさを感じざるを得ない。


つまり、まずは、コピーをし、物真似をし、学んで行く子どもたちに、更に多様な学びをさせるためには、時には親の手綱を緩めることが、必要かもしれないが、過去に遡って子どものコピー化の度合を評価する必要はなく、更なる可能性を発掘することに注力することが何よりも大切だと思う。