夢色ノート

夢色ノート

毎日の何気ない事や面白いと思った事、時には悩みとかも書いちゃうかも♪

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私の人生は周りから見れば、笑い飛ばせるようなストーリーではないのかもしれない。

死にたいと願いながらもどうにか前を向いてここまで来れたのはなぜか。

私が強かったからではない。

私を救おうとしてくれた手があった。

私を否定する家族やいじめっ子を見返したいという強い思いがあった。

そして、夢中になって走らせてくれる夢があった。


私は小さい頃から歌うのが好きだった。

でも、家族に声を否定され続けて、高めで細いこの声がコンプレックスに変わっていった。

学校でも、可愛い子ぶってると言われていた。

だから、家でも学校でも声を低くするように努めた。

そうやって人はアイデンティティを失っていくのだろうか。


家にいても話せる人がいなくて、孤独感に苛まれた私は、ラジオが大好きになった。

いろんな音楽に心を動かされたし、いろんな種類の声が笑わせてくれた。

深夜に流れる声優さんのラジオと出会った時、私の世界が少し変わった。

声の高い彼女は昔からいじめられていたと言った。

コンプレックスであったはずの声を武器にしている彼女が格好良く見えた。

自分もそんな風に生きれないだろうかと夢を見始めた。


この声を使って輝けたら、家族はどんな顔をするんだろう。

これは密かな復讐だったのかもしれない。

べつに歌でもいいし、演技でもよかった。

学校で演劇部を作って、芸術に詳しい先生に指導してもらった。

毎日3時間歌の練習に費やした。

田舎に住んでいたし、貧しかったし、家族の協力は得られない環境だった。

インターネットは親の目を盗まないと使えなかった。おまけに目が悪かった。

それでも出来ることをやったし、オーディションに落ち続けても諦めるつもりはなかった。

そのうち、CDを郵送するお金がなくなった。


高校生の頃は親との確執も酷く、学校にも居場所がなくとても孤独だった。

自傷行為を悪化させながらなんとか生きていた。

その時の私の命を繋ぎ止めていたのは紛れもなく夢だった。

いつか来る人生の大逆転を信じることで苦しい今をやり過ごしていた。

勉強か、技術を磨くか。

それしかなかった。


どんなに真剣に向き合ったとしても、目が見えない、貧しいといった壁は越えられないと知るのにそう時間はかからなかった。

バンドを組みたいと思っても楽器が買えなかったしバイトもできなかった。

養成所には断られたし払えるお金もなかった。

20歳の時、ようやく買えた安物のコンデンサーマイクも、オーディションでは音質が悪いと言われた。

歌を動画サイトにアップするのも視力的に厳しくなった。


それでも未だに諦めがつかないのは、私が大人になりきれていないからなんだろうか。

時々私はこの夢に殺されるのではないかと怖くなる。

私を生かすだけのエネルギーがあるなら、私を殺すエネルギーだって十分にありそうだ。

夢が叶う瞬間だけを信じて生きてきたのに、それが無理だと完全に理解してしまったら、私の人生は終わってしまう。そんな気がしている。

コミュニティFMで番組に出させてもらった時、ラジオ局の社長さんに「素敵な声だからラジオ続けてほしい」と言われた。

何度かステージで共演させていただいたプロのギタリストさんには「君はエンターテイメントの世界で生きるべきだ」と言われた。

どこかで折り合いをつけなければいけないと分かりながらも、私を肯定した数少ない言葉たちに支えられてしまう。


以前自己実現についての記事を書いたけど、そんなに簡単にいい子にはなれないんだなぁと痛感させられる日々です。


近年、毒親や、アダルトチルドレンという言葉が流行っている。

先日とあるユーチューバーが、毒親という言葉についての批判動画を投稿したら炎上した。

コメントには「私は毒親という言葉に救われました」というフレーズが溢れていた。

私には分からなかった。

言葉や定義に救われるとはどういうことだろう。


たとえば私の頭のおかしさにADHDという名前がついた。

確かに人に説明するのに便利になったし、今までの努力の方向性は非効率的なのだということも理解できた。

だけどそこに精神的な救いは感じなかった。

だって、私の日常にある困り事や、自分の改善すべき点は一つも減っていないから。

私には、病気だから何もかもできなくても仕方なかったんだなんて開き直ることもできなかった。

病気だったと分かっても、過去に他人にかけた迷惑が正当なものだなんて思えそうになかった。

これからだって、極力誰かの負担にならないようにしたいし、そのために自分を変えたり対策したりしていきたい。


毒親に関しても同じ。

私の親もそれに近い素質を持っていた。

暴力で子供を躾け、私の意見のほとんどを否定し、毎日ミスに怒鳴り、良い大学に行けと言いながら学費も出さず奨学金にも反対し…

数え切れない苦しみがそこにはあった。

親に憎しみがないだとかそんな綺麗事を言うつもりはない。

未だに自分がこんな生活をしているのは親にも原因はあるだろうと考えてしまう。

それでも、私の親に毒親という定義が当てはまっても救われたなどとは思えない。

過去の傷も消えないし、現状も変わらない。

きっと私は、私が幸せになることでしか救われないのだ。

親がお金出してくれなかったから、私は高卒ニートでも仕方ないなんて諦めたことは一度もない。

たとえ行きたくない大学しか選べないとしても、何かを変えられるなら、少しでもマシな方向に進めるなら、頑張ってお金を貯めるし行動もする。

どんな状況でも、陽光の差す方角へ進むみたいに、少しでも自分の幸せにつながっていそうな道を選んでいくしかないんじゃないかな。

時に他人の助言や励ましに背中押されたりするけれど、最終的に自分を救えるのは、未来を変えようとする自分の行動だけだと私は思ってる。

過去が辛いなら親に責任を押し付けたっていい。

でも未来を動かす鍵をそんな親に預けなくたっていいじゃんね。


もちろん本当に言葉や定義に救われる人がいるならその人たちを否定するつもりもない。

言葉を作るだけで人が救われるなら、そんなコスパの良いことはどんどんやった方がいい。

それが本物の救いであることを願う。

少なからず私のような考え方の人間も存在するから、他にも色々な意見を持つ人もいるだろう。

みんな自分の信じる方法で救われたらいいと思っている。

なんなら数年後とかに私も、そんな風に定義に救われる日が訪れるのかもしれない。


最後にひとつだけ。

毒親についての話を聞く中で、明らかに虐待にあたるような内容も多いと感じる。

元々毒親は、虐待の定義には当てはまらない親をカバーするために生まれた言葉だと思うのだけど、本当に虐待に悩んでる人は、毒親なんて軽い流行り言葉で片付けないでほしい。

もっと自分を大切にしていいし、遠慮しなくていい。

毒親という言葉にかき消されて、虐待という傷が軽く見られてしまうのを私は危惧している。

隠された虐待はそこら中に存在している。

全ての子供達が健やかに育ち、人権が尊重される世界になってほしいと心から思っている。

もし私に子供ができたら、まず私がそれを実践して、そのバトンを子供に繋ぎたい。

きっと私たちが本気になれば、実現できそうな気がしない?

酷い親に育てられた人こそ、そういう使命があるのだろうなと私は感じている。

私には優れた友人がたくさんいる。

高校の同級は、ほとんど名のある企業に就職したか、芸術やスポーツで活躍している。

大学の仲間にしても、みんな優れた能力を持っている。

そんな中で育った私は、自身もそうならなければ、優れた人間でいなければと思ってきたし、正直今でもそう思っている。

だけど、それって誰のためなのだろうという疑問も持っている。

その答えは私の過去が知っていた。


私は孤独や疎外感を恐れているにすぎない。

本当にその能力がほしいとは思っていない。

ただ、私はコミュニティーの中で重視されている能力を得ることで仲間外れを回避しようとしていた。

その証拠に、所属する場所によって目指したいものが変わっていた。

プログラミングの例が最も分かりやすい。

私はプログラミングが嫌いで向いてもいなかったと入学前から知っていた。

極めてできるようになったとしても、嫌いなことで生計を立てることになるので自分にとっては進んで学ぶ理由なんてそれほどなかった。

でも、訳あって情報学科に席を置くことになった。

しかも素質ある仲間たちがいた。

だから、私はプログラミングにしがみつこうとした。泣きながら、自傷行為を繰り返しながら課題を熟す日々だった。

卒業後続ける意志がないのなら、武器にする覚悟がないのなら放り出して適当に終わらせてもよかったのに、それが怖かった。

また取り残され、孤独になるのだというネガティブなイメージがずっと消えなかった。

それは幾度となく繰り返されたデジャブのようなものだった。


思い返せば私は生まれた時から一人ぼっちだった。

まず、家族で私だけが視覚障害者だった。

そこまで配慮のある家ではなかったから、見えないことで家族との会話や遊びに加われないことがわりとあった。

当時の私はそこそこ見えてはいたけれど、晴眼者と遜色なく過ごせるほどではなかった。

手探りで物を探すと怒られた経験から、見えないと言うのが怖くて家族に質問したり配慮を求めることができなかった。


高校では私一人だけが進学を許せなかった。

2年生からオープンキャンパスに行き、誰よりも早く受験勉強を開始したのに、受験する権利さえ与えられなかった。

みんなが目標に向かって進む姿を眩しく妬ましく思いながら、毎日就職担当の教員や担任と喧嘩をしていた。

合格ラッシュは特に孤独に苛まれた。


就労移行支援でも重度視覚障害者は私だけだったし、受け入れ経験もなかった。

プリントを拡大する以外の配慮はなかった。

白杖持たない弱視の利用者と比較され、その人ができることはあなたにもできるでしょと怒られた。

就職ができないと分かると、私をハロワに連れて行くことさえしなくなって、結局一人で就活を続けた。

何のために通っていたのかわからなくなって、地下街のフードコートや公園の噴水でサボったりしていた。


どこに行っても私は異質な存在だった。

でもそれはマイナスな面だけではないとも気づいていた。

たとえば、家族で私だけ目が悪く、私だけが寮に入っていた。

おかげで、他の兄弟よりも人と気を使い合って暮らすのは得意だし、協調生もあって、自立心が強いかもしれない。

家族とは不仲だけれど、集団生活でしか味わえない喜びをたくさん知っている。

例えば中学生の時は、私だけ別の高校に進学した。

みんなが遊んでる中、孤独に勉強を積んだけれど、応援してくれる人の暖かさも、スコアを伸ばせた喜びも、多くの知識も私だけが知っていた。

高校から大学に行けなかったおかげで、人より先に社会の理不尽さや厳しさを知ったし、年配の友達がたくさんできた。


今更だなって思う。

こんなに周りと違う道を与えられ続けてきたのに、コミュニティーに染まろうとしても無理なのだ。

初めから何もかも違うから。

一人ぼっちに慣れていたはずだった。

年齢が上がるに連れて焦っていた。

普通っぽく生きることは、普通っぽく生まれ育った人にお任せしてもいいのだ。

どこに行っても外れ物だった私が選ばなくても世界は何も困らない。

この人生だったからこそ出会えた優しさや学べたこと、経験できたことがたくさんあるのに、それらをなかったことにして普通というレールに上がれないことをいつまでも嘆いている。

それこそもったいないことだと早く気づきたい。

その寂しさはいつだって私の味方なのだ。

個性であり、オリジナリティあふれる武器の素材だ。

生かすも殺すも私次第。


余談だけれど、四人兄弟の中で、私だけ血液型が違い、名前の文字数が違い、家族の中で私だけが誕生日が奇数。

圧倒的仲間外れ感!

それは仲良く慣れなくても仕方ないって気にもなってくる…!(笑)

兄弟と性格も全然違っているけれど、だからこそ私が唯一の大卒資格保有者になるのですね!

ということで、弟には勉強頑張って追ってきてほしいです!