夏と秋が入り交じる頃、にわかに賑わう界隈がある。

 キノコだ。

 春夏秋冬、生えない時など無いように思えるこの菌類。
 動物なのか植物なのか専門家を悩ませ、ちょっと動物と言わせるような謎に包まれた生き物。

 素人には判別が難しく、体力勝負の登山道での発見はより難しい彼らの王と呼ばれる者が今の時期に発生すると思い込んだ者共は、やれ運動の秋だのと公言しながらも裏では自らの食欲の為に奔走するのである。

 私もその一人であることは言うまでもない。

 発生した場所も、種類も、公に騒ぐことは好まれず密やかに足を運ぶ者だけが知る味覚は、私の充足感を満たしてやまない楽しみの一つだ。

 藪に身を隠すように屈めて森に入ったかと思えば、恥じ入るように本屋で専門の最新図鑑を買い漁る姿は街行く人々から見れば滑稽の一言に収束するだろうが、菌類の思惑から抗えぬものは世界中にいる。

 歴史学者は、人類は植物の奴隷などと申す事あれど、身の内に菌類を飼い野外でも菌類を漁る私からすれば、動植物全てが菌類の奴隷と言えよう。

 そういうわけである。

 例年の悪癖を止められない私は、自己責任の名の元にリスキィな拾い食いへと今年も踏み切った。

 時期は程よく、しかし先駆者に一足も二足も負けた私が拾えたキノコは、土に隠されていた大きな虫食いだらけのもの。

 家に持ち帰り、複数の図鑑を捲って毒のモノではないだろうかと思案し、痛んでいる柄のほとんどを捨てながら、丁寧に刻んだ傘の虫出しをする間の祈るような心地といったら、受験の時を大いに越える緊張感であるのだから全くもって狂っている。

 これ以上の被害者が増えないことを祈るばかりだ。

 虫出しのために塩水に漬け込み、もう出汁もほとんど出てしまったろうモノを食する意味は誰にも理解されないが、私は既にこれをパスタにすることを決意した身である。

 万が一、毒であった場合を考えない量のバターをフライパンに敷き、玉ねぎと自家製パンチェッタを刻み入れ、水を切ったキノコを放り込んだあとはパルミジャーノを削り牛乳を注ぎ入れた時点でキノコの価値より材料費の方が高いため採算など取れる筈もないが、もしこれで病院に担ぎ込まれた時には完全な赤字に付属して世に醜聞を晒す羽目になるだろう。

 誰がそのような愚かなことをするだろうか。
 ああ、どうか私を鼻で笑い真似などしないように願いたい。
 
 そんな気持ちでパスタを茹で、ソースに絡める心には動揺を決して悟られてはならぬ微笑が浮かぶ。
 醍醐である。
 あるいは、これは美食のための自殺願望なのかもしれぬが、そのような判別は死後、神か仏にでも任せておけばよい。

 何に合わせてもピカピカと美味しくなるパスタを危機的なソースに絡め、一口。

 この一口のために、今年も歳を重ねたのだと実感する味を堪能しながら、私は賭けに勝った愚かなギャンブラーとして両腕を天高く広げて立ち尽くすのだった。