異言語コミュニケーションについて、関心がある。
異言語、つまり
言葉が違う者同士のコミュニケーション。
我が家は母語が異なる者同士の国際結婚なので
家庭の中で
異言語コミュニケーションを行なっている。
わたしも英語を話すし
彼も日本語がだいぶ上達してきたので
ガチガチの異言語同士ってわけでもないんだけど。
異言語コミュニケーションっていうと
母語や母国語が異なる者同士のコミュニケーションを想像する。
通じない者同士のコミュニケーション。
だけど、
発達した言語を所有する者同士のコミュニケーションだけじゃなくて、
赤ちゃんとお母さんを始めとする保育者とのやりとりも
異言語コミュニケーションの一つだと思っている。
言語が未発達な赤ちゃんの表情や泣き方で
赤ちゃんが何を欲しているか、何を求めているか
なんとなく察せられるお母さんは多いと思う。
むかし、
言葉と気持ちはどちらが先か
考えたことがある。
気持ちがあって、その気持ちにラベリングするように言葉をつけたのか。
それとも
先に言葉があって、その言葉に合わせて気持ちを添わせたのか。
答えは言わずもがな前者で、
まずは伝えたい気持ちがあって、
伝えたい出来事や感情があって、
それを伝えるための手段として人は“言語化”をした。
赤ちゃんは強烈な不快を伝えるためにオギャーと泣く。
言葉の前に不快感がある。
気持ちが先だ。
そして母親は言葉にしなくても
なんとなく、その不快の原因がわかってしまう。
暑いよー!って言われたわけでも
腹ペコだよー!って言われたわけでも、
おしりが気持ち悪いよー!って言われたわけでも、
痛いよー!って言われたわけでも、
眠いよー!って言われたわけでも、
怖いよー!って言われたわけでもない。
でも、なんとなくわかってしまう。
で、これ、
言葉が通じ合わない者同士でも、
あるいは言葉が通じ合う者同士でも、
同じようなことが起こる。
なーんかわからないけど、伝わってしまう。
言葉が通じ合う者同士は、
言葉に頼っている部分が多くあるので、
気づきにくかったり
読みにくかったりするのだが、
言葉が通じ合わない者同士の
異言語コミュニケーションの場合は
顕著でわかりやすい。
空気感や雰囲気といった言葉に置き換えられるのかもしれない。
相手と話す言葉が違うという前提と
理解したいという気持ちがあるからこそ、
言葉以外の細部から
相手の伝えたいであろうことを読みとろうとする。
それは特殊な能力ではなく、
本来の人間がもともと持つ能力の一つなのでは?と思ったりする。
ケータイ/スマホが発達して、
電話番号を覚える必要がなくなったわたしたちは、
電話番号を記憶しなくなった。
漢字変換機能があるので
漢字が書けなくなった。
地図アプリをひらけば自分がどこにいるのか、
目的地までの時間、最短ルートを教えてくれるので
地図が読めなくなった。
言語化すれば気持ちを表せるので
気持ちを読みとる必要がなくなった。
言語はとっても便利なツールの一つだけど、
それに依存することによって
もしかしたらもともと出来ることが
出来なくなってしまっているのではないだろうか
なーんてことを思ったりする。
で、
そういった便利なツールから一旦距離を置くことによって
もともと持ってる力を思い出せるキッカケの一つが
異言語コミュニケーションなのではなかろうか。と思ったりする。
そもそも言葉が通じるっていうのも
自分がそう信じているだけで
まやかし
かもしれんしね。
なーんて
身も蓋もない話。