(《⑥「私はクリスチャンです」というとき》の文章の続きです)
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ただ、自分の信念を押し付けてはいけないけれども、
自分としての何らかの信念を持っていないと、
患者さんへの深いところでの作用は難しいのではないかな
という思いがあります。
「目に見えない大切なもの」の前提なく、
「自殺しないで」
「恨みに突き進まないで」
「自分を大切にしよう」
などと本気になって言えないのではないかなぁ
と思っていますし、
自分自身が自分の存在について葛藤してきた歴史、
そして、葛藤の進行形なしに、
相手になにか言っても、伝わらないような気がします。
その前提を持たないで精神科医療に携わっている人は
いったいどう対処しているんだろう
って個人的には疑問をもたずにおれません。
以前、先輩の精神科医と患者さんの自殺について話していたときに、
「結局は、その人の選択だからね」
と言われたことばをいまでも思い出します。
もちろん、その言葉には、
精神科医自身の診療での心的外傷を慰安し
自分を納得させるためという思いも強く含まれたもので
──経験した方は分かると思いますが、
知り合った人を自殺という形で喪失する体験は
一回一回、かなりのダメージを受けていきます──
その先生も患者さんに
自分で自分の命を終わらせる行為をしてほしくない
と願っていることは間違いないと思いますが、
やっぱり、先のような思いがあると、
「死なないで」
にこめられる本気さが
違ってきてしまうような気がしてなりません。
自殺しないでといっても、
自分を大切にといっても、
学校で教えられた「唯物論」では、
患者さんの「どうして」に本気で向き合えません、
少なくとも私は。
USPT仲間の小栗康平先生たちが、
輪廻転生の視点から患者さんたちに関わっていかれるように、
治療者の内になんらかの土台となる(たたき台となる)
人生哲学、信念がないと、
本気の心と心、魂と魂の触れ合う診療は
成り立たないのではないかなぁ。
その点で、
神田橋先生や中井久夫先生の
影響を最小限にしぼることを目指した
精神療法に、完全には私淑しきれていない自分がいて、
その分、
現在の自分の診療スタイルと
自分の診療でのしっくり感とのあいだに齟齬が生まれている
ような気がします。
いつかクリニックがもてたらなぁ
と宝くじに当たることを夢想するような
ファンタジーを抱くことがときどきあります。
(いまの病院を辞めるなんて言ってませんからね、誤解なきよう。)