こころの癒し処 虹の空【Pomaブログ】

こころの癒し処 虹の空【Pomaブログ】

自分が変われば、相手も変わり、人生も変わりだす。
あなたが「変わる」お手伝いをしています。

Amebaでブログを始めよう!

自分らしくあることってのは、難しい。

 

素直に生きているようでも、実際はそうではなく、どこかでムリをしたり、我慢したりして生きてしまうことがある。

 

僕は、助けられなと生きられないタイプの人間だ。

だけど、男だから、長男だから、夫だからと、強がったり、見栄を張ってしまう。

 

そう思ってやっているわけではなく、無意識にカッコ付けてしまうのだ。

 

これもある意味洗脳なのだろう。

男だからどうあるべきだとか、長男だからかくあるべしとか、夫だからこうしろとか、これは乱暴な考え方だ。

 

僕たちは肩書き通りの枠に収まれるほど狭い世界で生きていない。

これだけ情報が溢れてしまっている世界で、肩書の枠になど収まりきるはずがない。

 

だから、多様性なんて言葉が流行っているのだろう。

 

多様性って言葉もなんだか都合の良い解釈をされてるから、あんまり好きではない言葉だけど、ようは個人であることを主張しているってことなんだと思っている。

 

男、長男、夫って枠とかよりも、個人であることを自覚することが重要なのだ。

個人だから、枠は一人ひとり異なる。

これを多様性って言葉で表しているのではないだろうか?

 

だから、「自分が何者か?」なんてことを考える人がいるけれど、もはやそれは無意味なのではないか?

 

生まれた瞬間から、名を与えらた瞬間から、あなたはあなた以外の何者でもない。

空想や想像じゃない現実では自分以外の誰かになれるはずなどない。

 

僕はPomaでしかない。

Pomaってのはハンドルネームだから、本名ではないけれど、僕個人の枠を超えてPomaが独り歩きすることはないし、したとしたら、それはムリをしているってことだ。

カッコつけるってのは、ムリをしてるってことだ。

 

このムリを無理なくやめることがしたい。

 

これは心の問題だから、日々の積み重ね、意図的にそうしていくしかない。

無意識にしている自分の言動に対して、「これはオレか?」と投げかけ意識していくことでしか、やめることはできない。

 

等身大の自分ってのは、手の届く範囲のことしかできないし、今ある現実こそが自分だ。

だけど、現実の自分よりも自分を大きく見せたいし、自分でも大きく見えておきたい。

その虚栄心が現実も未来も歪めてしまう。

 

自分以外の何者にもなれないのに、それ以上を求めてしまう。

それは、誰かの求める自分になろうとしていたり、誰かに認められる自分であろうとするからだ。

 

違う。

 

嘘なく、見栄なく、手の届く範囲のものごとだけが実現できる、それだけの自分で立派だ。

そんな自分が弱いとさえ思うのは、高望みしているからだ。

弱いんじゃない。

それが僕なのだ。

 

現実の自分を受け入れること、これが自分らしくあれるための方法だ。

ひとつひとつ、現実の自分を自覚していく作業をすることで、僕はもっと自分を知ることができる。

背伸びもせず、カッコつけず、僕でしかないことを認め続ける。

 

求めているものよりも劣る自分を受け入れることは、ツラいかも知れない。

でも、ムリしてるほうがシンドい。

 

僕は自分で思ってるよりはるかにちっぽけだ。

 

でも、きっとそんなちっぽけな僕こそを愛してくれる人がいる。

だから、今日から僕はちっぽけな僕で良い。

 

自分に何ができるか?なんて理想を考えるのはやめて、自分にできることは何か?と現実を知っていこう。

誰かに期待することは、あんまり良くないと思う。


というのは、他人はあなたの期待のために生きている訳ではないからだ。


あなたも誰かに期待されると、

嬉しいという高揚感の反面、

責任感を背負うというプレッシャーも抱えるのではないだろうか?


そして、

期待に応えられている間は良いが、

期待に反いた場合は、信頼を失いかねない。


そうなった時、期待によって2人の人間がマイナスを被る。


つまり、期待というのは、互いの喉元に突き付けられた諸刃の剣なのだ。


だから、誰かに期待を持たせるような事も言わない方が良い。

本人にその気はなくとも、その期待を下回った時に、勝手に相手は傷付く。

裏切られたような気になる。


では、期待させないのなら、期待しないのなら、僕たちはどうやって相手との約束や自分との約束を果たせばいいのか?


それは、プロセスを見せること。

そして、結果を示すこと。


これしかないだろう。


約束しないことができれば良いのだけれど、約束は必要だ。


それが自分の原動力になるし、行動に強制力も持たせるから、約束はすれば良いと思う。


だけど、約束の結果に期待をしない。


期待はせずとも、約束を果たすことには真摯に向き合わなければならない。


要は、いつも矛先は自分にだけ向けるべきなのだ。


約束された方なら、約束を果たせるように支援してあげればいい。


勝手に期待をしてはいけない。


むしろ、期待するなら応援すべきだし、それを示すべきだ。


勝手な期待で互いが傷付くのだから、その期待を叶えるためにも互いが尽力すべきだと、僕は思う。


だからだ、そうなると、不用意な約束をしなければ良いとなる。


約束することは、相手の期待を叶えられることだけ。


力不足なことなら約束しない。

支えてもらえない人とは約束しない。


そんな風にして自分のこころを守るってことも大切な考えじゃないかなぁと思う土曜の昼下がり。

ただ側にいれたらいい。って思える人と出逢えることは幸せだけど、僕は側にいるだけでは足りないなぁと思う。


やっぱり、会話もしたいし、触れたい。


隣にいても、2人の間にガラスがあったら、それはとてもツラいことだと思う。


コミュニケーションにおいて、触れるってことはとても大切なんじゃないだろうか?


酷な話だけど、子どもはコミュニケーションがないと成長の過程で命を失くすなんて研究結果を見たこともあるから、人同士の関わりってのが生命において如何に大切なのかってことだと思う。


かといって、メールは無機質だから枯渇する。

だったら、手紙の方が伝わるだろう。

電話だけじゃ渇望する。

直接会って会話しないと得られないものは確かにある。


そして、会うだけでも物足りない。


触れ合えるというのは、最上級のコミュニケーションじゃないだろうか。


別に情事を言ってるわけではない。


手に触れる、唇に触れる、頬に触れる。

そう言うライトなことを言っている。


つまり、手から伝わる何かこそが、コミュニケーションにおいて最も重要なんじゃないか?


手はスゴい。


手当てって言葉があるように、手を当てるだけで、ケガが治るなんて科学的にあり得ない。


だけど、確かにそれはある。


治りやしなくとも、痛みが和らぐとか、こころが落ち着くとか、手にはそんなチカラが確かにある。


だからこそ、触れ合うことにもチカラがあるんじゃないか?と思う。


手、もっと言えば指から得られる情報ってのはとても多いし、そこから流れ込んでくる何かも確かに感じられる。


逆に指から流し込まれる何かも相手には伝わるのかも知れない。


それは、優しさだったり、怒りだったり、感情的なものもそうだし、想いだって伝えられるだろう。


あぁ、そう言えば、楽器なんてまさに指や手の織りなすものだ。


と言うか、人の作り出すものは、手による。


だから、触れるってことが関係性において重要になることも間違いはないだろう。


なんら科学的根拠なんぞないが、僕はそう思う。


触れ合える関係で居続けることが、良好な恋愛関係においては絶対条件だろう。


では、どうすれば触れ合える関係を維持し続けられるのだろうか?


その答えは明確ではないけれど、

互いに愛し合う以外にはないだろうと思う。


とは言え、どれだけ愛し合い、仲良くなろうとも、尊重と謙虚を忘れては長続きしないから、こっちの方が大事なのかな、、、