ブログを綴るのに10〜120分程度時間がかかる。

普段のブログであればお風呂や移動中…言葉や感情に集中できる時に書き溜め、ストックし、熱が冷めた頃に冷静かつ俯瞰的言葉として出すのだが、このブログはそうもいかない。

当日文がやってきて当日返すのだ。
問われる。

一度サラリと書いて語尾や句読点を見直し、主語を入れ替えてみたり、接続語を変えてみたり。
削ったりライトにしたり。

毎日必ず10回以上読み直して更新するが、毎日必ず書き直している。何度も何度も。

私の普段のブログはもっとヘビーで尖っているけれど、ここでは優しくあれるように。
と思っているが、同じ人生量を持った同じ人間が紡ぐのだからひねくれ感は滲み出てくるものだ。

面白いよなぁ。

己の感性だけでバチバチに綴る文。
感性を頂き感性で返す、他者がいて成り立つ自分。
別に誰にどちらを見られても困らないし、誰かのためではなくどちらも私のための言葉でしかないのだけれど言葉において私になりきらなくてもいい場所があるというのはありがたいなぁと思うのです。



さて。

今日は男女共用水着のお話。


当事者であり、それなりにセクシュアリティに関する差別や悩みもありますが、みんな一緒にしようとしすぎる近年の風潮にも違和感を感じることが多いです。


多様化するセクシュアリティを理解しようと見せていることが明らかに企業のウリにするためだったり、

反対に、多様性を理解しない人はおかしい。といった雰囲気だったり。

私は理解出来ないことが悪ではなく、理解出来ないからと批判的な言葉や態度で誰かの人格を傷つけることが悪だと思うので、必ずしも全ての人に理解されたいだなんて全く思いません。

受け入れられない人がいるのも自然なこと。



だからこそ、

「全員男女共用水着を着なさい」ではなく

『新たな選択肢』が増えることは素敵だなぁと思います。


特に水着はボディーラインが強調され、制服より性的な目で見られやすいですものね。

私はメイクもお洋服も好きですし、女性のルックスで女性が好きなので体に違和感を抱くことは少ないですが、

そもそも『恋愛対象が女性』である前に、『男性恐怖』が強いので、泳ぐことが好きでもやはり学生時代の授業として取り組む水泳は嫌いでした。

男性の先生が担当の時はほとんどサボっていましたし、「なんで授業に出ないんだ」と言われても、狭く堅い学校組織では理由を話せるような空気でもなく、信じられる大人もおらず、ひたすら悪い女を演じていた気がします。



水着に限らず

「ずっとこうだったから今後もこうだ」

「少数派の意見なんて聞いてられん」

という考えではなく、

変わりゆくもの、変わらないもの、どちらも大切にしながら柔軟性のある社会になればいいなぁと思います。



私も現代の進化には疎く、メールより手紙派ですし、流行りには乗らないタイプですが、

自分と違う考えや感覚にも耳を傾け、理解しきれずとも知ろうと寄り添うことで見えてくるものがたくさんあることを強く感じる日々。

新たな感覚や異なる価値観を恐れることなく、出来るだけ広い視野で物事を捉えられるような人間で在りたいです。