『ここはどこだろう?』
と思わずにはいられない。
バスに揺られて1時間。
随分と山奥に入っていくものだと思い、
昔の人は、こんな人里離れた山奥で自分と向き合うための
厳しい修行を積んでいたのかと思うと、なんだか感慨深い。
本当にここが人口100万人を超える都市なのかと思ってしまう。
ついさっきまで、
京都の玄関口である京都駅ビルの近代的で洗練されたデザインに、
なんとなく古都のイメージに似つかわしくないと違和感を覚えたばかりだった。
目の前には京都タワーか・・・。
『うーん、なんだかなぁ。』
石畳の道を舞妓さんが颯爽と通り過ぎる様子を想像していた自分としては、
ちょっとがっかり。
ところが、今降り立ったこの場所は、
そのどちらでもない。
ただ、山の中にいるだけだ。
目指す先は、
ガイドブックにも載るほど有名な観光地。
案内板は立っているし、
人通りも少なくはない。
それでもここがいつもいる空間とは違う、
明らかに異世界に来たような不思議な感覚を覚えた。
僕が目指すのは、高雄山神護寺。
案内に従って進んだ沿道にはモミジが植えられ、
鮮やかな新緑の葉を通して降り注いだ木漏れ日が何とも気持ちいい。
今年は雨が多かったこともあり、
薄黄緑色の柔らかい歯が何とも言えない爽やかな初夏を演出している。
きっと、秋には深紅に染まった紅葉が異次元の空間を創り出すのだろうと思った。
しばらくはこのモミジの植わった下り道を進むだけだったので、
さしてきつい思いもせずに済んだ。
が、その後が大変だった。
小さい川にかかる太鼓橋を渡り、
いよいよ目指す神護寺が近づいてきた。
そしてその参道に差し掛かるや、
急な階段を上ることになった。
『やっぱりこうでなくちゃ。』
そう思った。
今でもそうだが、
かつてこの寺で修業を重ねた数々の僧侶は、
人里離れた厳しい環境に身を置き、
自己研鑽に励んだのだと思うと、
この急な階段を上ることで、
自分もその思いに少しだけ触れることができた気がした。
この階段を登りきるころには、
すっかり息を切らし、
座り込みたい気分になっていた。
でも、山門の荘厳さに圧倒され、
そんな気持ちも吹き飛び、
山の空気と完全に調和した、
この古びた佇まいにただ見惚れてしまった。
そして、入り口で拝観券を購入し、
中に入ると、
思わずため息が漏れた。
『ここは日本ではない。』
そう思った。
いや、間違いなく日本である。
人口100万人を超える政令指定都市である、
京都市の中だ。
いくら観光都市の京都といえども、
普通にビルやマンションは立ち並んでいるし、
車や鉄道も走っている。
普段京都市内に暮らしたところで、
特に意識もしなければ、
まだ機械もなかった頃の生活に
思いを馳せることなどまずないだろう。
しかし、ここはなんだ?
完全に時代の流れに取り残されている。
周囲に広がる山々の緑と対比するように、
参道に敷かれた白い砂利のコントラストが美しい。
そして、古びた木造の建物の数々。
かつては鮮やかに塗られていたであろう
朱色も剥がれ、
朽ちた木材がむき出しになった様子が
時間の流れを感じさせる。
この完全に時間の流れから取り残された空間で、
僧侶はいったい何を考え、
修行に励んでいたのか。
そう思うと、改めて身の引き締まる思いがし、
敬虔な気持ちでご本尊にお参りに行こうという気になった。
境内を一通り回った後、
いよいよ本堂に向かった。
周囲と変わらず、
ここも古い建物だ。
古いが、品がある。
漆喰で仕上げられた白い壁、
建てられてから長い年月、
雨風にさらされたであろう古びた柱、
近くから見たのでは真上を見上げないと
視界に収まらないほどのスケールの大きな佇まいだけがそうさせているのではない。
ここには、今も仏の心が生きていることが分かる。
そのことがより一層建物に品を与えている。
中に入ると、暗い。
その暗さがより一層この空間を厳かなものにしていた。
正直、ここに来るのを少し後悔した。
生半可な気持ちで来るべきではなかった。
自分自身の心の中に染み付いた甘えをお詫びする気持ちと、
そして、今まで頂いた数々のご縁に感謝しながらお参りし、
帰途に着いた。
PS.
神護寺は、
京都の数あるお寺の中でも、
僕が最も魅力的だと感じる場所である。
市街地から離れ、山の中に静かに佇む様子。
まるで異世界に迷い込んだかのような、
歴史と風情ある厳かな空間。
そして、思わず背筋を伸ばすほどの
張り詰めた緊張感が漂っている。
近畿圏からであれば、
日帰りで行ける距離であるし、
是非とも訪れてほしい場所である。
そして、帰ってくる頃には、
それまでとは違った、
新しい自分に気づくのではないだろうか?