皆さん大阪の秘境とも言える天王寺七坂についてははすでにご紹介しましたが、天王寺にはもうひとつ歴史的事件をめぐる関連史跡が点在しているのをご存じでしょうか。慶長20(1615)年にあった大阪夏の陣の最終局面での戦闘です。夏の陣と冬の陣とあわせて大坂の陣と言われることもあります。

 

 大坂の陣は歴史ドラマや映画にはお馴染みの話題ですが、NHKの大河ドラマに「真田丸」というドラマがありました。ドラマの最後で、主人公真田信繁(巷間では幸村と呼ばれる)が東軍の大将徳川家康の陣に攻撃をかけ、もう少しのところでかなわず落命するシーンは印象的ですね。ご記憶でしょうか。幸村が奮戦した夏の陣最後の激戦地が天王寺周辺に集中しているのです。

 

 天王寺にある夏の陣の史跡の内の、安居神社、一心寺、一心寺存牟堂、茶臼山、堀越神社、四天王寺庚申堂、四天王寺をめぐるスタンプラリーもあります。この内、安居神社と一心寺は七坂でも紹介しているので、記憶されている方もおられるかもしれません。場所は狭い範囲に集中しているので、ゆっくりまわっても2時間程度で回れます。気軽なハイキングコースとして利用するのもいいでしょう。

 

 これから数回にわたって、天王寺区にある代表的な夏の陣激戦地を紹介しようと思いますが、それに先立って、夏の陣がおこった経緯について簡単におさらいしてみたいと思います。

 

 

 

(信長から秀吉へ)

 1582年織田信長が本能寺で明智光秀に討たれると、中国での毛利氏との戦闘から引き返してきた秀吉は、山崎で明智光秀を討ち果たし、信長の後継者の地位へ大手をかけます。その後、織田政権内部での抗争に勝ち抜き、信長の後継者の地位を確立させると、九州や東北を平定し、1591年に天下を統一し、さらに太閤の地位を得ます。天下を統一した秀吉は太閤検地や刀狩りで中世的秩序を終わらせ、近世的な秩序を構築します。

 

(晩年の秀吉)

 でも日本を統一した秀吉はそれに飽き足らず、明国(当時の中国)を服属させようと、1592年朝鮮に無謀な出兵をします(文禄・慶長の役)。戦局は一進一退しますが、慶長3(1598)年、秀吉の死去(享年62歳)により、双方に大きな傷跡を残して撤兵することになります。

 

(関ケ原合戦)

 秀吉の家臣団は一枚岩ではありませんでした。秀吉の死後、家臣団は東西に分かれ、内部分裂の様相を深めます。慶長5(1600)年、毛利輝元を総大将とする西軍と、徳川家康を総大将とする東軍が関ケ原で激突し、徳川家康が勝利、慶長8(1603)年に江戸で幕府を開きます。

 関ケ原後、豊臣家は摂津、和泉、河内3ヶ国の大名として小さく押し込められますが、天下には浪人があふれ、さらには捲土重来を夢見る豊臣恩顧の大名も多数おり、家康としてもまだまだ楽観できる状態ではありませんでした。

 

 

(大阪冬の陣)

 家康は秀頼や淀殿に寺社への寄進をすすめるなど豊臣方の弱体化を狙います。その中で、戦端をひらくきっかけとなったのが、京都の方広寺鐘銘事件でした。鐘銘に「国家安康 君臣豊楽」とあるのを家康の2字を引き離して呪詛していると難癖をつけたのです。

 慶長19(1614)年、徳川家康は天王寺茶臼山に本陣を置き、約20万もの大軍で大坂城を包囲したのです。12月に豊臣方と徳川方で和睦を結びます。和睦の条件は外堀を埋めることでしたが、約束を破り徳川方は内堀まで埋めにかかり、これが夏の陣での豊臣方敗北の大きな要因になります。

 

(大坂夏の陣)

 違約に怒った豊臣方は再び徳川方との緊張を深めます。戦闘は1615年4月の樫井の戦いを手始めに、5月5日の道明寺・八尾若江の戦い、5月7日に天王寺口の戦いと続きます。15万もの大軍で押し寄せた徳川方に対し、豊臣方は約わずか5万5千で応戦します。両軍とも奮戦しますが、西軍の真田幸村、木村重成、東軍の本多忠朝など武名をはせた名だたる武将が相次いで討ち死にします。そして5月8日大坂城は落城。豊臣秀頼と母の淀殿は自害し、豊臣家は滅亡してしまったのでした。このように最後の戦国合戦ともいえる大坂の陣は終焉。翌年、大御所徳川家康の死去で徳川将軍は実質的に2代目秀忠の時代を迎え、慶弔から元和に改元、徳川政権は安定していくのでした。