才能はかり売りマーケットごろっぴあ「天満・満天堂」にて。14時から。1000円
新日本・天満橋ビル10階
詳しくは
http://www.justmystage.com/home/nigiwaiya/
桂蝶六公式ホームページまで。

パンフレットができましたので中身を紹介します。

★★ 演者紹介~私の落語観~ ★★

               文責 桂 蝶六

「牛ほめ」愚家かゑる(米田薫)

 大阪青山大学で教授をなさっているかゑるさんのご専門は教育心理学、臨床心理学である。塾では世間話をする機会も多いが、かゑるさんからも私は多くを教わっている。意外に思ったのは、いつもほがらかで穏やかな印象のかゑるさんだが若かりし頃は必ずしもそうではなかったらしい。むしろ短気で喧嘩早い一面を持っていたというから驚いた。「人は変われる」ということを自身の体験を持って語れる人は強い。「学校カウンセリング」がかゑるさんの研究テーマだが、「落語を教育に生かす」ことを目下ライフワークにして取り組んでいる私にとってこれほど有り難い存在はいない。

 ところで、落語の世界は理想のコミュニティーで成り立っている。「後味」のいい笑いこそが落語の身上である。かゑるさんのようなフィールドから落語を語ってくれることは落語にとっても大変喜ばしいことである。いずれ落語を剣道、柔道・・といった学校の選択必須科目のひとつにしたい目論んでいる私だが、その時にはかゑるさんにおおいに活躍して欲しいと密かに願っている次第である。

 

 

「天狗裁き」おしゃべり亭一服(尾花正敏)

 一服さんはかなりの博学である。少しでも興味のあることはとにかくどんどん吸収する。書や哲学、合気道などにも詳しい。・・・何でも乱読するタイプらしい。先日は一服さんに薦められて私も「自殺論」という古典の書を読むはめになった。面白かった。

 落語塾を主宰していて嬉しく思うのは、それぞれの塾生が自分のフィールドに当てはめて見事に生かしているということだ。落語そのものが哲学であり、コミュニケーションスキルや身体論を身につけるための題材でもある。高座に出て受けたの受けないだの一喜一憂するのもまた有意義だが、趣味を生活といった本来の自分のフィールドにしっかり生かすことの方が大事である。落語の世界を引きこもる場にするのではなく、そこからどう自身を周りに開いていくのかということである。

 一服さんは一見バラバラなことに挑戦しているように見えるが決してそうではない。それぞれの趣味が一服さんというひとつの存在の琴線に触れたのだからちゃんと繋がっているはずだ。

 ・・前回の演目は孫が誕生した喜びから子供の話であったが、今回は愛してやまない奥様を思って夫婦のお話である。

 

「平林」愚々亭ひらりん(宮崎昌予)

 大阪アニメーションスクールを卒業して今は俳優養成所に通っている。愚か塾にも月に四、五回は稽古にやってくる。かつてスクールには「落語ゼミ」というものがあって私はその講師を勤めていた。有り難いことに彼女を含むその時のメンバーは学外発表会において学院長賞というものを獲得した。事実上の優勝である。演劇やダンス、アフレコ、群読といった声優学校特有のゼミを押しのけての優勝だったので喜びは一際大きかったのを覚えている。この経験が私に大きな勇気と自信をもたらせてくれたのは言うまでもないが、同時に「教える」ことの喜びをも存分に味わわせてもらった。私も過去にテレビのコンクールで優勝したことが一度だけあるが、この学校での喜びは全くその比ではない。

 今もそのゼミのメンバーが数人塾に通ってくれているが、この年齢になってこの世代の者たちと世間話ができることを心底有り難いと思っている。下は中学一年生から七〇代まで。老若男女が集える落語はやはり素晴らしい。

 

「蜆売り」 賑わい亭楽走   (島野哲司)

楽走さんは情の人である。しかし、役職が役職なので時には厳しいことも言ったりしなければいけないのだろうなあと察する。でも、いくら口で厳しいことを言おうが慕われる人は慕われる。楽走さんがまさにそういう人物だ。人に厳しい人ほど優しくなくてはならないとある人に教えられた。部下を叱るにその言い方やタイミングといったスキルも大事だろうが、もっと大事なのはその腹であろう。

落語では愚かな人物が大活躍するが、その彼らを愛すべき人物として生かしているのは周りの人格者たちである。私の目に楽走さんもまた常に「律する人」であり、先に申した通り「情の人」である。趣味のマラソンも落語もそういったフィルターを通して実践されている。今回も楽走さんらしい一席。おやっさんが見物である。

 

 

「野崎参り」賑わい亭葉音  (大西圭美)

 落語の内容に関わらず見ていて楽しくさせてくれる人がいる。おっちょこちょいなところもあり脳天気で底抜けの明るさを持った人物の存在が落語にも現社会にも欠かせない。葉音さんがまさにそういうタイプに当たるだろう。落語界の住人で言えば喜六がそれである。葉音さんは喜六と見事にリンクしている。

 また、喜六はいつもスカタンを言って周囲を笑わせるが何も笑わそうと思ってスカタンを言っているのではない。喜六はいつも大真面目。なおかつ人生を謳歌している。芸とはいえ喜六の魅力を自身を投影しながら無理なく表現してくれる葉音さんに感謝!落語は演じるその人自身の魅力をも引き出してくれる。

 

落語は人の愚かな部分を描いている
人は聖人君子を尊敬しながらも
心のどこかで愚か者を愛している
それは自分の愚かさに気付いているからだ
完全よりも不完全がいい
人の魅力はそんなところにある
落語はそんな魅力を描いている

 

春の日の雨上がり。貧乏長屋の住人が家の外で会話をしている。「おい、雨が上がると表の通りがいっぺんに賑やかになったな」「さいな。雨を待ってたんやな」「これ、みなどこへ行くねん」「見たら判るやないかいな。毛氈を持ったり酒樽を下げたり、お重持ったり・・花見に決まったある」「花見か、ええなあ・・ええ着物身につけてご馳走持って花見に行く奴があるかと思うと、それ見てぼやいてる奴がある。俺もう嫌んなってきた」「ようそんな情けないこと言うてるな。人は気の持ちようやで。気で気を養うちゅうことがあんねん。花見に行きたかったら行たらええねん。木戸銭要らん。花はタダや」「けどこんな格好で」「花を見に行くねん。着物見せにいくわけやない」「ご馳走がないな」「家におったかてなんなと食うやろ。それ持っていって花を見ながら食べたらええがな」「肝心の酒がない」「酒がなかったらお茶を持っていけ。向こうが酒盛りならこちらは茶か盛や」・・そうこうするうち話がまとまり長屋全員で花見に出掛けた。おなじみ「貧乏花見」の一席だ。

貧乏長屋を背景にした咄は多々あるが、その住人たちは皆一様にたくましい。貧乏を楽しんでいる。それは落語というイマジネーションの世界だからという人がいるかも知れない。でも落語界の住人から学ぶことは多い。「気で気を養う」とは、想像力を働かせて気持ちを豊かに持つということである。落語には究極のプラス思考が展開されている。また、彼らにとって一番の救いは「自分は一人ではない」ということだ。

 落語を楽しむにはやはり生をお薦めする。一人でグラスを傾けながら名人の調子に酔うのもいいだろうが、それよりも大勢で一緒に笑うところにこそ落語の醍醐味がある。共に笑うということは「価値観を共有する」ということだ。「自分は一人ではない」ことを実感するにはやはり共に笑うのが一番いい。哀しくて辛くてどうしようもない時こそ笑えばいい。哀しみも度が過ぎれば笑い出すという人の習性。これは一体何を意味するのだろうか。

私は阪神・淡路大震災の折、一年ほど経ってから数カ所の仮設住宅を落語家の先輩と共に慰問に回った。そこにはまるで取り残されたかのようなお年寄りたちが集まっていた。関係者の一人は私にこうおっしゃった。「震災直後はずいぶん慰問の方も来られたんですが、今ではもうマスコミも芸能人もほとんど見向きもしなくなりました」私にとってこの時の落語ほどよく笑ってもらった記憶は後にも先にもない。

災害に直面して人は何とか生き伸びようと必死にあがく。しかし、それが少し落ち着くと今度は無性に不安に苛まれる。心の中にぽっかりと穴を空けてしまう。衣食住が行き渡って後、被災者の多くが自ら命を落としている。・・・最後にもっとも必要になってくるのは心に埋める救援物資である。永く見守ることが大切だ。(了)


「アドリブ」という言葉がある。辞書では「即興」と訳されている。元々業界用語だが今は一般にもずいぶん馴染みの言葉である。私はある先輩芸人にこう言われた。「芸人にとってのアドリブは世間で言うアドリブとはちょっと意味が違うんやで」。世間一般的にアドリブとは突発的にその場の思いつきで台詞を発する事を指すようだが芸界ではそれでは通用しないと言うのがその先輩の主張である。先輩曰く、芸界でのアドリブとはその場の状況に応じ「あらかじめ用意しておいた言葉」を引き出してくる能力の事。芸人にとってのアドリブとは突発ではなくかなり確信的な事が多い。単なる思いつきではない。

これはある恩人から教わった日本の風習。「仲人の落とし扇」。結婚が決まると結納を行う。その儀式が滞りなくお開きになってその帰り際、お仲人さんが持っていた扇をその家の庭などにわざとポンと落としていくというのだ。これは実に日本的な考え方で「満ちるは欠けるがごとし」という考えに繋がっている。月は満月になると後は欠けていくもの。おみくじの大吉もこれ以上はないからかえってよくない。だから、結納も何事もなく完璧に滞りなく済ましてしまうのはかえって縁起が悪いというので、お仲人さんがそういう儀式?を行うというのだ。「何事も完璧すぎるのは良くない」=「仲人の落とし扇」。私はこの話を聞いた時、きっと何かに使えると思い、そっと頭の引き出しにしまっておいた。

その機会は意外にすぐに訪れた。とある会社の周年パーティー。私はその式典の司会と余興に呼ばれていた。社長の挨拶に始まり祝辞が続いた。そしていよいよ乾杯である。ここまでは進行に何の問題もない。会場も祝賀気分に包まれていた。ところが事件はここで起こったのである。「乾杯」の発声間際である。壇上の壁面には日の丸国旗と社旗が並んで張り付けてあった。その社旗があろうことか「乾杯」と言いかけた瞬間、ハラリとはがれ落ちてしまったのだ。会場が一瞬にして凍り付いたのは言うまでもない。約三〇〇名の視線は一斉に私に注がれた。「お前、何とかせんかい」という熱い思いのこもった眼差しである。あのような場面で事を収めるのは必ず司会者の役目である。そのためにわざわざ高いギャラを払ってまでプロを雇うのだ。この時、ふと思い出したのがそう・・・「仲人の落とし扇」である。スタッフが社旗を直している間、私は粛々とこの風習の意味を説明申し上げ、「これも「仲人の落とし扇」という事でどうかご容赦を・・」という言葉で締めくくった。会場は万雷の拍手で包まれた。元の祝賀ムードである。列席者一同もこの気まずい状況を何とか打破したいと思っていたのだろう。その日も無事に終わり帰り支度をしていると、主催の係が私に近づいてきてこうおっしゃった。「見事なアドリブでしたね」。そう、これはまさしくアドリブである。こういう時のためにちゃんと用意しておいた正しいアドリブである。バラエティー番組などでちょっといい言葉などが発せられると、受けた相手が「それ貰っておこう」などと手のひらにメモする所作が時折見られるが、あれも芸人にとって案外大真面目な行為である。芸人にとってこれも大切な危機管理なのだ。

どうも日本人は最悪の状況を口にする事を「縁起でもない」と言って避ける傾向にある。でも、どんな世界においてもプロはハプニングに強い。それはいつも最悪の状況を考えているからだろう。司会でもそうだが上手く行って当たり前。何かハプニングを処理する場面でも起こらない限り、一般的にはなかなか評価して貰えないのが司会の仕事だ。だからハプニングは自分をアピールする絶好のチャンスになる。いつも縁起でもない事を考えているのは必ずしもマイナス思考ではない。何か軽いハプニングでも起こらないかと期待しながらマイクを握る私はとても悪い芸人かも知れない。しかし、これは究極のプラス思考だと自負している。(了)

               

「定吉」「旦那さん、何ぞご用で?」「先ほどお前に言いつけておいた金魚鉢の水は替えてやったかいな」「へえ、替えておきました」「で、どこの水を入れてやった?」「へい、あの、銅壺の」「ドウコ?これ、胴壷と言うたら湯と違うか」「へえ、そうでおます」「そうでおます?・・それで金魚はどうしてますな?」「結構な風呂ができたなあてな顔してええ具合に横になって寝てはります」「そら何をするのじゃ。死なしてしまってどうもならんな。何故私の言うたように井戸の水を入れてやらんのじゃ」「井戸の水を入れてやろうと思ってたんです。けど、うちの井戸は濁ってドロドロでんねん」「どうもならんな。うちの井戸は浅いから、雨が降るとすぐに濁ってしまう。・・そう言えば薬屋の大将が言うてなはった。井戸の水の濁ったのにはミョウバンを入れてやるとすぐに澄むという事を聞いてる。・・そうや、おまはん、これから横町の薬屋へ行って明礬を買ってきなはれ」

上方落語には商家を舞台にした作品が多い。奉公人である丁稚の定吉の年齢は七、八つといったところ。この後、定吉はミョウバンを買いに出かけるが、ミョウバンという言葉を忘れてしまい、薬屋で「コンバンおくれ」と言ってしまう。しかし、それで買えるわけもなく、そのまま戻ってきて「旦那さん、そんなもん置いて無い、って言うてはりましたで」「ない?薬屋さんに無いてなことはないが・・・それで、どう言うて買いに行ったんや?」「コンバンおくれ、って言いました」「今晩?ようそんなアホなことを言うたな・・・コンバンと違う。私の言うたのはミョウバンじゃ」「ああ、一晩違いで売ってくれなかった」。

これは「明礬丁稚」という落語。小品ながらもよくできた咄だ。この咄を演じる際の私の心得として、子供はできるだけ屈託なく無邪気に可愛らしく観客に映るよう心掛けている。例えば、咄の冒頭に丁稚が鉢の中の金魚を殺してしまうといった件が出てくるが、この時に旦那は軽く咎めはするものの決して本気で丁稚を叱り飛ばすことのないようにしている。あくまで丁稚は「仕様のない奴」だが「可愛いやつ」として接するのである。つまり、丁稚を「可愛い奴」と観客に見てもらうには、丁稚ばかりを可愛らしく演じようとするのではなく、旦那を始めとする周りの環境が丁稚に対して「可愛いやつ」という眼差しで接してあげるのである。そうすれば自然に丁稚は可愛い存在として観客にも映るであろう。落語の中の丁稚に対する旦那の眼差しはそのまま観客の眼差しでもある。

愛情をもって接すれば、素直な態度で返ってくる。憎しみや怒りをもって接すれば、反発的な態度で返ってくる。落語も同じだ。落語は一人で演じていても、旦那が憤りをぶつけるような態度で臨めば、子供も自然と刃向かうような言葉遣いで返してしまうもの。やはり、当の子供ばかりを可愛く演じてもそうは見えない。

 おおらかな度量をもった旦那に、無邪気で屈託ない憎めない子供。このように理想的なコミュニティー=人間関係も落語の身上だ。その各々の人格や立ち位置は周りの環境で作っていく。私自身も今何とかこうやって「落語家」という立ち位置でいられるのも周りのおかげである。

朝露に輝く草はとても美しいが、自身で光っているわけではない。陽に照らされてこそだ。「露草のつゆ、身に光るもの持たず」。落語はそう教えてくれている。(了)