『本当は、怖かったんだ』
そう言ったら、一体何人が信じてくれるだろうか。
『怖くて怖くて、逃げ出したくて、でも卑怯者になるのも怖くて。本当は岡田の事なんてどうでもよかったんだ。』
本当の本当を話したら、誰か信じてくれるだろうか。
たまたま近くにいただけ。
そんな理由を、誰か許してくれるだろうか。
ずっと、そう、思っていた。
同窓会の飲み会で、その話の口火を切ったのは、当の岡田だった。
小学生の時には見たことの無い、酔いに真っ赤に染まった顔で、嬉しそうに誇らしげに、突然岡田は事件を口にした。
『いやあ、あの時は助かったよ。』
と。
ざくざくざく。
忘れていた、いや多分忘れたつもりでいたはずなのに、頭の裏っかわに一気に映像が広がる。
ざくざくざく。
朝まで仕事をし、うたた寝のような仮眠の後、半ば無理矢理出席した同窓会だった。
『あはは。またその話?』
昔好きだった子と話していた宮内が割って入る。
『岡田は酔うといつもその話だからなあ。今日はやっと本人に話せるな、なあ岡田。』
嬉しそうに小さく頷きながら、宮内を見る岡田の横顔に、声に出さず笑顔を張り付けたまま、僕は叫ぶ。
【やめろ】
『あの時助けてくれなかったら、今頃こんな風に笑って飲んでないよ。性格歪んじゃったりしてさ。いや本当に。』
笑顔を消して、まっすぐに目を合わせて、岡田が言う。
『あー、またやってるー。岡田くんの【俺のヒーローだー!】でしょ?おじさんになると同じことばっかり言うんだからねー。』
バレー部だった福島は、学級委員で、男子のいたずらを全部先生に言いつける女子だった。
口うるさく、正義感に溢れ、暴力やいじめを絶対に許さなかった。
でも。
あの時は黙っていたはずだ。
黙って、下を向いて、体を固めて。どんな顔をしてたかは、もう覚えていない。
『おおお、【暴君】純治の話かよ。そーいや今日も来てねえなあ、あいつ。来れるわけねえか。来たらブッ飛ばしちゃうかもなあ、オレ。』
エースピッチャーだった森田は、当時のガキ大将の口調のまま、太い腕を振り回しながら言う。
『あん時一発殴ってやりゃ良かった』
そう言って、子供の顔に戻って笑う。
でも、声は聞こえなかった。
あの時、一番後ろに並んでいたはずの森田の声は、岡田が泣きだしても、純治が体育館から飛び出しても、結局最後まで聞こえなかった。
『なんだ、来てたのか?そんな隅にいるから先生気づかなかったぞ。体、平気か?仕事忙しすぎて体壊すんじゃないかって、こないだの同窓会でも、みんな言ってたんだよ。』
当時、三年目の新米教師であった浜村先生が、すっかりおっさんの顔で言う。
『お前たちの成長に必要な要素は、大きく言って3つだ。ひとつは知識、ひとつは感性、最後に一番大切なのが、仲間だ。お前たちは偶然同じクラスになったんじゃない。誰かは誰かに必要だから自然とここに集まったんだ。だから全員が必要な人間で、全員が仲間なんだよ。』
新学期の一発目に浜村先生がホームルームで言った台詞だ。
クラスの揉め事を見逃さず、贔屓をせず、しかし堅物ではなく、卒業式の後『お前らの成人式の時に女体の神秘を教えてやる。』と男子だけを集めて言う砕けた教師でもあった。
でも、目をそらした。
あの時、狼狽えて周りを見回す僕の視線は、体育館の前に並ぶ、浜村先生の驚いた目を確かに捉えた。
ほんの一瞬だったと思う。でも、確実にクロスしたはずのすがるような思いから、浜村は逃げた。
そして、後悔と自己弁護の混じった真顔で、僕の視線を横顔で弾いた。
弾き続けた。
『ビールでいいのか?』
いつの間にか、僕を中心に人が集まっていた。
岡田、宮内、福島、森田、そして浜村先生。
あの時、僕らのすぐ近くにいて、一番遠くにいた連中。
『久しぶりだし、今日は朝まで飲むぞ。なあ今日は帰らなくてもいいんだろ?たまってんのよ、思出話が。』
森田が、ジョッキごと肩に腕を回して言う。
僕は、曖昧に笑い返す。
曖昧にしか笑い返せない。
『ねえねえ、折角だからちゃんと本人から話してもらおうよ。なんか、昔過ぎて細かいとこ忘れちゃってるし、アノ【鉛筆事件】』
少しだけ、周囲から声を潜めるように福島が言う。
【嘘だ】
僕は思う。
【覚えているだろう?福島】
居酒屋の宴会場は、あちこちにかつての仲良しグループの小さな島が出来、 近況報告と思出話の花が咲いている。
でも。
でも、わかる。
あそこで、そっちで、こちらを見ずに耳を側立てている奴がいることが。
意識の矢とでも呼ぶべきモノが、僕を焦点にして宴会場の全体から放たれている。
好奇心で火だるまになりながら、見えない炎に内側だけ焼かれて、車座のはじに僕は座っている。
『そーゆー事なら、オレが話しましょう。』
岡田は、怪しい呂律を意思で強制して喋る。
見せ場だとでも言うように。
『ありゃあ、二学期の終業式だ。いや、始業式だったか。まあ、どっちでもいいや。校長の挨拶の後、なんやかやの連絡事項の発表があってた。身長順で【暴君】純治はオレのひとつ後ろ、さらにそのひとつ後ろが【俺のヒーロー】の並び順だった。』
なあそうだろ?と岡田が目で言う。
確かにそうだ。
あの時期、急に背の伸びた僕は一気に五人飛ばしでその位置に立っていた。
純治の近くになるのは正直嫌だったけど、それでも嬉しかったのを覚えている。
『あ。そうそう、岡田君と純治と【ヒーロー】が並んでた並んでた。』
福島が頬をカシスウーロンで染めて、はしゃいで見せた。
【ヒーロー】はやめてくれよ。
僕の声はあまりにも小さく、全員に無視される。
【やめてくれよ】
『いきなりだぜ。いきなり。』
岡田が腰を浮かせながら言う。両腕を大きく広げている。
森田は、僕の肩に回した腕に力を入れ、小鼻を膨らませて頷いている。
そうだったそうだったと言うように。
宮内は、何故だか薄く笑ってグラスの酒を見つめている。
オレは覚えてるよとでも言いたそうに。
浜村先生は、腕組みをして目を閉じている。
そんなことがあったのかと、取り返せない過去を歯噛みする振りをして。
『最初はカリカリカリって音がしたんだ。
何の音だろうってぼんやりと考えてた。
校長の話でいい加減眠かったから、頭ぼーっとしてたし。
そしたら純治の手がいきなり太ももに当たって、ああ嫌だなあ、また何かされるんだなあって思ってた。
そしたら腿が急に熱くなって、びっくりして足を上げようとしたんだけど、その時純治がオレの肩をがっちり押さえたんだ。
『動くな』って言われたと思う。
汗が急に額に流れ出して、喉がからからになった。
足の熱さはじわじわと痛みに変わってきて、どくんどくんって、右足全体が脈打つみたいだった。
純治は笑ってたと思う。
小さく息をするのが聞こえてて、それがオレには笑ってるように聞こえた。
しばらくすると、いきなり足の痛みが引いた。目だけで下を見たら、純治の手と握ってる鉛筆が見えた。
小さい鉛筆だよ。
汚い、小さい鉛筆だった。
芯が綺麗に削ってあって、ああさっきの音は鉛筆を削ってる音だったんだって、そんな時に妙に冷静に考えてた。
そして、また純治が言った『動くな』って。
純治は全然迷わずに、ほんとに全然なんでもないように、手をぶらぶらさせると、もう一度オレの足を刺した。
足がまた脈打って、鼻の奥がつーんって痺れ出した。
体に力が入らなくなって、涙が出た。
変な話だけど、涙が出てから急に怖くなって、そしたら涙が止まらなくなった。
オレ、もうどうしていいかわかんなくなっちゃって、泣いてることが恥ずかしいなんて思う余裕もなくて、ただ、ただ、怖かった。
その時だよ。
いいか。そん時だ。
そんなもうギリギリで、立ってる感覚すらなくなってたその時にだ。肩を押さえてた純治の手がいきなり外れて、足の鉛筆も急に抜けた。
そしてそして、【ヒーロー】の声が聞こえたんだ。『おい!何やってんだおまえ!やめろ!』って。』
【違う】
『ちょっと、待って。』
福島が遠慮がちな表情で、でもきっぱりと言った。
いいとこなんだからちょっと待てよ、岡田の不満顔を無視して福島が言う。
『そんな台詞だったっけ?あの時。『てめえふざけんじゃねえ!』じゃなかった?』
『違う違う。』
宮内が薄笑いのまま『そんな乱暴じゃなかったって。なあ?』と僕の目を見て言う。
『たしか『岡田が嫌がってるから止めてやれよ』みたいな感じだったよな?冷静に止めたんだよ。オレはそう覚えてるけど。』
『全員ハズレだ』
森田はもう笑顔に戻っている。
『いきなりぶっとばしたんだよな。純治が吹っ飛んだから鉛筆が抜けたんだ。で、泣きながら純治は体育館から逃げてったと。オレ、忘れられねえよあん時の事。みんな年取ってボケたんじゃねえの?岡田、おまえが忘れてんじゃねえよ。』
【違う】
浜村先生は、みんなが一斉に喋り出しても黙って目を閉じていた。
【違うよ】
『え?何?』
福島が隣のグループの女子と話している。何故だか入り口付近の同級生達が、ざわざわと低く騒ぎ出す。
【そうじゃない】
ざわめきは波になって、同級生の頭の上を流れ出す。
【そうじゃないんだ】
小さな驚きと嫌悪と愛想と好奇心の混ざった波は、ゆっくりゆっくりと、でも狙いを定めたように僕らの方へ向きを変え、そして走り出す。
【知ってるだろう?】
岡田も宮内も福島も森田も、中腰になって向かってくる波を見ている。
【知ってるだろう?覚えてるはずだろう?】
『その時、何と言ったんだ?』
一人だけ座ったまま、腕を組んだまま、目だけを開けて、僕を真っ直ぐに見て、浜村先生が言う。
『何と言ったんだ?』
向かってきた波は、福島の前でピタリと止まり、ゆっくりと跳ね返る。
跳ね返って、どこかに吸い込まれるように静かに消える。
【あの時】
波が消えたのを確認したような奇妙な間の後、ほとんど首だけを回して、呆けたような顔で、引っ込み損ねた笑みを頬に浮かべたままで、福島が僕を見た。
【あの時僕は】
岡田も宮内も森田も僕を見ている。
【『ごめんなさい』って】
『なあ。何と言ったんだ?その時。』
浜村先生が僕を見ている。
その後ろで、同級生全員が僕を見ている。
【『許して』って】
宴会場が向こう側からふたつに割れていく。
【あの時。僕は『ごめんなさい、許して』って】
『ねえ。来たって、純治。』
今度ははっきりと笑顔で、福島が言う。
そう言ったら、一体何人が信じてくれるだろうか。
『怖くて怖くて、逃げ出したくて、でも卑怯者になるのも怖くて。本当は岡田の事なんてどうでもよかったんだ。』
本当の本当を話したら、誰か信じてくれるだろうか。
たまたま近くにいただけ。
そんな理由を、誰か許してくれるだろうか。
ずっと、そう、思っていた。
同窓会の飲み会で、その話の口火を切ったのは、当の岡田だった。
小学生の時には見たことの無い、酔いに真っ赤に染まった顔で、嬉しそうに誇らしげに、突然岡田は事件を口にした。
『いやあ、あの時は助かったよ。』
と。
ざくざくざく。
忘れていた、いや多分忘れたつもりでいたはずなのに、頭の裏っかわに一気に映像が広がる。
ざくざくざく。
朝まで仕事をし、うたた寝のような仮眠の後、半ば無理矢理出席した同窓会だった。
『あはは。またその話?』
昔好きだった子と話していた宮内が割って入る。
『岡田は酔うといつもその話だからなあ。今日はやっと本人に話せるな、なあ岡田。』
嬉しそうに小さく頷きながら、宮内を見る岡田の横顔に、声に出さず笑顔を張り付けたまま、僕は叫ぶ。
【やめろ】
『あの時助けてくれなかったら、今頃こんな風に笑って飲んでないよ。性格歪んじゃったりしてさ。いや本当に。』
笑顔を消して、まっすぐに目を合わせて、岡田が言う。
『あー、またやってるー。岡田くんの【俺のヒーローだー!】でしょ?おじさんになると同じことばっかり言うんだからねー。』
バレー部だった福島は、学級委員で、男子のいたずらを全部先生に言いつける女子だった。
口うるさく、正義感に溢れ、暴力やいじめを絶対に許さなかった。
でも。
あの時は黙っていたはずだ。
黙って、下を向いて、体を固めて。どんな顔をしてたかは、もう覚えていない。
『おおお、【暴君】純治の話かよ。そーいや今日も来てねえなあ、あいつ。来れるわけねえか。来たらブッ飛ばしちゃうかもなあ、オレ。』
エースピッチャーだった森田は、当時のガキ大将の口調のまま、太い腕を振り回しながら言う。
『あん時一発殴ってやりゃ良かった』
そう言って、子供の顔に戻って笑う。
でも、声は聞こえなかった。
あの時、一番後ろに並んでいたはずの森田の声は、岡田が泣きだしても、純治が体育館から飛び出しても、結局最後まで聞こえなかった。
『なんだ、来てたのか?そんな隅にいるから先生気づかなかったぞ。体、平気か?仕事忙しすぎて体壊すんじゃないかって、こないだの同窓会でも、みんな言ってたんだよ。』
当時、三年目の新米教師であった浜村先生が、すっかりおっさんの顔で言う。
『お前たちの成長に必要な要素は、大きく言って3つだ。ひとつは知識、ひとつは感性、最後に一番大切なのが、仲間だ。お前たちは偶然同じクラスになったんじゃない。誰かは誰かに必要だから自然とここに集まったんだ。だから全員が必要な人間で、全員が仲間なんだよ。』
新学期の一発目に浜村先生がホームルームで言った台詞だ。
クラスの揉め事を見逃さず、贔屓をせず、しかし堅物ではなく、卒業式の後『お前らの成人式の時に女体の神秘を教えてやる。』と男子だけを集めて言う砕けた教師でもあった。
でも、目をそらした。
あの時、狼狽えて周りを見回す僕の視線は、体育館の前に並ぶ、浜村先生の驚いた目を確かに捉えた。
ほんの一瞬だったと思う。でも、確実にクロスしたはずのすがるような思いから、浜村は逃げた。
そして、後悔と自己弁護の混じった真顔で、僕の視線を横顔で弾いた。
弾き続けた。
『ビールでいいのか?』
いつの間にか、僕を中心に人が集まっていた。
岡田、宮内、福島、森田、そして浜村先生。
あの時、僕らのすぐ近くにいて、一番遠くにいた連中。
『久しぶりだし、今日は朝まで飲むぞ。なあ今日は帰らなくてもいいんだろ?たまってんのよ、思出話が。』
森田が、ジョッキごと肩に腕を回して言う。
僕は、曖昧に笑い返す。
曖昧にしか笑い返せない。
『ねえねえ、折角だからちゃんと本人から話してもらおうよ。なんか、昔過ぎて細かいとこ忘れちゃってるし、アノ【鉛筆事件】』
少しだけ、周囲から声を潜めるように福島が言う。
【嘘だ】
僕は思う。
【覚えているだろう?福島】
居酒屋の宴会場は、あちこちにかつての仲良しグループの小さな島が出来、 近況報告と思出話の花が咲いている。
でも。
でも、わかる。
あそこで、そっちで、こちらを見ずに耳を側立てている奴がいることが。
意識の矢とでも呼ぶべきモノが、僕を焦点にして宴会場の全体から放たれている。
好奇心で火だるまになりながら、見えない炎に内側だけ焼かれて、車座のはじに僕は座っている。
『そーゆー事なら、オレが話しましょう。』
岡田は、怪しい呂律を意思で強制して喋る。
見せ場だとでも言うように。
『ありゃあ、二学期の終業式だ。いや、始業式だったか。まあ、どっちでもいいや。校長の挨拶の後、なんやかやの連絡事項の発表があってた。身長順で【暴君】純治はオレのひとつ後ろ、さらにそのひとつ後ろが【俺のヒーロー】の並び順だった。』
なあそうだろ?と岡田が目で言う。
確かにそうだ。
あの時期、急に背の伸びた僕は一気に五人飛ばしでその位置に立っていた。
純治の近くになるのは正直嫌だったけど、それでも嬉しかったのを覚えている。
『あ。そうそう、岡田君と純治と【ヒーロー】が並んでた並んでた。』
福島が頬をカシスウーロンで染めて、はしゃいで見せた。
【ヒーロー】はやめてくれよ。
僕の声はあまりにも小さく、全員に無視される。
【やめてくれよ】
『いきなりだぜ。いきなり。』
岡田が腰を浮かせながら言う。両腕を大きく広げている。
森田は、僕の肩に回した腕に力を入れ、小鼻を膨らませて頷いている。
そうだったそうだったと言うように。
宮内は、何故だか薄く笑ってグラスの酒を見つめている。
オレは覚えてるよとでも言いたそうに。
浜村先生は、腕組みをして目を閉じている。
そんなことがあったのかと、取り返せない過去を歯噛みする振りをして。
『最初はカリカリカリって音がしたんだ。
何の音だろうってぼんやりと考えてた。
校長の話でいい加減眠かったから、頭ぼーっとしてたし。
そしたら純治の手がいきなり太ももに当たって、ああ嫌だなあ、また何かされるんだなあって思ってた。
そしたら腿が急に熱くなって、びっくりして足を上げようとしたんだけど、その時純治がオレの肩をがっちり押さえたんだ。
『動くな』って言われたと思う。
汗が急に額に流れ出して、喉がからからになった。
足の熱さはじわじわと痛みに変わってきて、どくんどくんって、右足全体が脈打つみたいだった。
純治は笑ってたと思う。
小さく息をするのが聞こえてて、それがオレには笑ってるように聞こえた。
しばらくすると、いきなり足の痛みが引いた。目だけで下を見たら、純治の手と握ってる鉛筆が見えた。
小さい鉛筆だよ。
汚い、小さい鉛筆だった。
芯が綺麗に削ってあって、ああさっきの音は鉛筆を削ってる音だったんだって、そんな時に妙に冷静に考えてた。
そして、また純治が言った『動くな』って。
純治は全然迷わずに、ほんとに全然なんでもないように、手をぶらぶらさせると、もう一度オレの足を刺した。
足がまた脈打って、鼻の奥がつーんって痺れ出した。
体に力が入らなくなって、涙が出た。
変な話だけど、涙が出てから急に怖くなって、そしたら涙が止まらなくなった。
オレ、もうどうしていいかわかんなくなっちゃって、泣いてることが恥ずかしいなんて思う余裕もなくて、ただ、ただ、怖かった。
その時だよ。
いいか。そん時だ。
そんなもうギリギリで、立ってる感覚すらなくなってたその時にだ。肩を押さえてた純治の手がいきなり外れて、足の鉛筆も急に抜けた。
そしてそして、【ヒーロー】の声が聞こえたんだ。『おい!何やってんだおまえ!やめろ!』って。』
【違う】
『ちょっと、待って。』
福島が遠慮がちな表情で、でもきっぱりと言った。
いいとこなんだからちょっと待てよ、岡田の不満顔を無視して福島が言う。
『そんな台詞だったっけ?あの時。『てめえふざけんじゃねえ!』じゃなかった?』
『違う違う。』
宮内が薄笑いのまま『そんな乱暴じゃなかったって。なあ?』と僕の目を見て言う。
『たしか『岡田が嫌がってるから止めてやれよ』みたいな感じだったよな?冷静に止めたんだよ。オレはそう覚えてるけど。』
『全員ハズレだ』
森田はもう笑顔に戻っている。
『いきなりぶっとばしたんだよな。純治が吹っ飛んだから鉛筆が抜けたんだ。で、泣きながら純治は体育館から逃げてったと。オレ、忘れられねえよあん時の事。みんな年取ってボケたんじゃねえの?岡田、おまえが忘れてんじゃねえよ。』
【違う】
浜村先生は、みんなが一斉に喋り出しても黙って目を閉じていた。
【違うよ】
『え?何?』
福島が隣のグループの女子と話している。何故だか入り口付近の同級生達が、ざわざわと低く騒ぎ出す。
【そうじゃない】
ざわめきは波になって、同級生の頭の上を流れ出す。
【そうじゃないんだ】
小さな驚きと嫌悪と愛想と好奇心の混ざった波は、ゆっくりゆっくりと、でも狙いを定めたように僕らの方へ向きを変え、そして走り出す。
【知ってるだろう?】
岡田も宮内も福島も森田も、中腰になって向かってくる波を見ている。
【知ってるだろう?覚えてるはずだろう?】
『その時、何と言ったんだ?』
一人だけ座ったまま、腕を組んだまま、目だけを開けて、僕を真っ直ぐに見て、浜村先生が言う。
『何と言ったんだ?』
向かってきた波は、福島の前でピタリと止まり、ゆっくりと跳ね返る。
跳ね返って、どこかに吸い込まれるように静かに消える。
【あの時】
波が消えたのを確認したような奇妙な間の後、ほとんど首だけを回して、呆けたような顔で、引っ込み損ねた笑みを頬に浮かべたままで、福島が僕を見た。
【あの時僕は】
岡田も宮内も森田も僕を見ている。
【『ごめんなさい』って】
『なあ。何と言ったんだ?その時。』
浜村先生が僕を見ている。
その後ろで、同級生全員が僕を見ている。
【『許して』って】
宴会場が向こう側からふたつに割れていく。
【あの時。僕は『ごめんなさい、許して』って】
『ねえ。来たって、純治。』
今度ははっきりと笑顔で、福島が言う。