昨日、部屋を掃除してたら、昔、自分で書き取った汚い紙が出てきた。

いつだったか、ある日本最大級の小売企業創業者の部屋に飾ってある言葉として

雑誌か何かに紹介されていたものを書き取ったものらしい。


大企業の前線とは言え、やはり自分は守られた世界にいるんだなと思う。

守られているから成功報酬という概念が無くても仕方ないんだろうが、

今の企業の権限委譲ってものに最近、疑問を持っている。


企業家精神に裏打ちされた自由度ってものがお題目で、組織を細かく分けてその組織を1つの会社に見立てて

そこで権限を持たせて意思決定のスピードを上げるってのは何だか形骸化している。


自由がまるで無く全て上に伺いを立てる形態であるのに、損益責任は営業現場に残ったまま。

コンプライアンスという名のもとに監査ががんがん入り、社内業務に追われる毎日。

これで現場からの新規案件の突き上げが弱いって言われても、提案したり新しいことをやる=失敗のリスクをとる人間が

損をするようになってしまう。


アメリカ型の組織論の表面部分のみ取り入れ、仏作って魂入れず状態。


これが僕の勤めている会社だけではないと思う。

僕は日本が直線的にアメリカ化していくことに懸念とそして大変な危機意識を持っている。


外資系の経営コンサルティングファームの経営陣クラスに何人か友達がいる。

とはいっても40代のおっさんで、もうかれこれ7年くらいの付き合いになる。


彼らの話しを聞いていると、受注する為に経営コンセプトなんかが生み出されるのであり、

そういう意味では本末転倒なんだよね。


でも悪いのは横文字だったり外国だったり、そういうものにめっぽう弱いおっさん連中なんじゃないか。


日本には日本のやり方があっていい。

そんな危機感を持っている僕は、その紙を見て、改めて思った。


自分の価値観で商人の道を貫いている日本人が果たして何人いるのか?


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農民は連帯感に生きる
商人は孤独を生きがいにしなければならぬ
総べて競争者である
農民は安定を求める
商人は不安定こそ利潤の源泉として
喜ばねばならぬ
農民は安全を欲する
商人は冒険を望まねばならぬ
絶えず危険な世界を求めそこに
飛び込まぬ商人は利子生活者であり
隠居であるにすぎぬ
農民は土着を喜ぶ
大地に根を深くおろそうとする
商人は何処からでも養分を吸い上げられる浮き草でなければならぬ
其の故郷は住む所全てである
自分の墓所はこの全世界である
先祖伝来の土地などと云う商人は
一刻も早く算盤を捨てて鍬を取るべきである
石橋をたたいて歩いてはならぬ
煮との作った道を用心して渡るのは
女子供と老人の仕事である
我が歩む処そのものが道である
他人の道は自分の道ではないと云う事が
商人の道である

5月5日の自分に駄目出ししたい!

生きることについて感じたことを書くはずだったのに、いつの間にか頭で考えたことを書いてしまいました。

これでは自分の心のありのままを表現することにはならないね。


不自然だよね。

自然じゃないよね。


自然とは、

例えばそれは4月に桜が咲くということなのです。

誰にも頼まれなくても、勝手にそれが起こるということであり、

それは晴れたり、雨が降ったりと同じような感覚で、起こることなんです。


でも僕らは頭の中に脳みそが詰まっていることが原因で、

不自然なことをしてしまいます。


猛省。

最近、恋愛で悩んでいる20代後半女性達3人自称“ガールズ”がクライアントで、彼女達がすばらしい男性との恋愛通して人生を豊かにする為のセッションを始めました。


プライベート、特に恋愛に様々な問題を抱えるガールズ達とたまたま知り合い、なかなかみんなスランプ脱出のきっかけをつかみきれないでいた訳です。


禅的マネジメントを人生の柱に据える僕からすると、「こうすればいいのに」「もっとこういう視点持ったら変わるのに」のオンパレードで、まぁ、主任ライフ・アテンダントとして彼女達のアドバイザー兼カウンセラーとなることになったのです。

副主任には私の禅的マネジメントをアカデミックな分野からサポートしてくれる強力な援軍である会社同期 D氏が合流!し、計2名の講師と3名のガールズ達の人生探しの旅が始まることに。


彼女達はすごくピュアな子達で、が、故に不器用すぎてしまい中々うまくいかないことが多々。


たとえば合コンに行くことに対して1人の子がすごく抵抗感を持っているんですね。

最近まで長く付き合った彼氏がいたとはいえ、男性との出会いを求めて合コンにいくのはガツガツしているようで嫌だって言うことを言い出した。


これを禅語で説明するなら我逢人って言葉が最適。


文字通り、「我、人と逢うなり」 ということで、文字通り出会いこそが命だってことです。

自分だけで考えて、自分だけで行動していたのでは見えないことがある。


人との出会いがどんな形であれ“何か”を生む。


自分以外の人は自分とは違う領域を持ってい生きているから、新たな発見や自己の再認識などエキサイティングなことなんです。


僕は人に逢える場を大切にします。


別に合コンが好きって意味じゃなくて、たとえば結婚式の2次会幹事とか率先して引き受けます。

幹事同士、知らない人がひょんなことから知り合い、互いを受け入れあう。


ガールズの中のM子はこう答えた。


「わたし、ちょー社交的ですっ!」


彼女、確かに社交的かも知れない。

聞いてみると、知り合う人・休日を過ごす人が圧倒的!!に女性だけ。


そりゃあ自然じゃないよね。


だって人口の50%が男性なのに、M子ちゃんはその50%(女性)の思考しか知らないのです。


セッションの末、とりあえず出会いの場に行ってみることにはなったのですが。。。。

道のり長そう。

先日、読書を良くする友人からある相談を持ちかけられた。

人生のあらゆる局面で必要なことを読書から得ようとしていた友人は、時として本に書かれていることと真っ向から反することが自分の人生にて起こってしまうと。


ある高僧がこう答えている。

膨大な本の読んでいる人とほとんど本を読まない高僧が、肩を並べて話しが出来ると。


本を読む、テニスをする、マラソンする、恋人と語らうetc.... 全ては人生における道具に過ぎない。

この人生で手にする道具を僕らが使って、そして自分の人生の為に学ぶのであり、

人生の中で有効に使われて始めて意味を成す訳なんだという意見にすごく賛同きる。


では人生とは何か??

人が生きるということ。


生きているから結婚する、生きているから食事をする、生きているから学ぶ、生きているから服を着るetc......

生きていないなら書いた全てはいらないよ。


では生きるということは何か??

生きるとは、禅的に答えれば「人格を磨き清らかな心を得ること」だと僕は解釈している。


毎日仕事で忙しく、勉強で忙しく、友達と遊びで忙しく、家事だ育児だのと新たなことにどんどん人生が支配されていく。

これが生きるってことだっていう人いるけど違うよね。

生きる上で全てがやっていくことであり、全ては道具に過ぎない。


あれやこれやと忙しくて、「生きる」ってことがある意味、疎かになっているんじゃないか?

どんな道具を持っているかも大事だけど、その道具を使って何をしたかってのが大事なんだろう。


だけど、どんな道具をそろえるかってのにみんな躍起だよね。(学歴、資格・・・)

どこかでそれを冷めて見ている自分が僕の中にいる。


生きているからやっていることにひきづられて、生きるということに真剣に向き合わなくなっているんじゃないか。


そんな自分に対する危機感からこれから生きるってことについて自分なりに考えてみたい。

とりあえず今日はここまで。


むずい。。。。。。。


相手との同化。

息するタイミングから、鼻を書くタイミング、咳払いの仕方まで全てを真似る。

そうすると不思議に相手が考えていることが分かってくる。


この手法は実はある友人(といっても40歳過ぎ)から教えてもらった。


相手からみると、敵対する相手ではなく仲間だと感じるらしい。

なんとなく許されてしまう、なんとなく貴重な情報を教えてもらうしまう。

そんな不思議なことが山ほど起きた。


厳しい交渉の局面、絶対的に不利な謝罪する場面。

僕はこの術を使い何度もピンチを切り抜けてきた。


座禅というのは息と1つになるのが真髄。


交渉という禅は、対話者と1つになることなのかもしれない。