対論『死 刑 制 度』

死 刑 制 度 存廃をめぐっては、事件や死 刑囚とかかわった人たちが、自らの体験に基づきそれぞれの思いを抱いている。犯 罪被害者遺族の松村恒夫さんは「死 刑囚は死をもって償うべきだ」と主張。これに対し、死 刑 廃 止を求める弁護士の大谷恭子さんは「制度として人の死を選択できることは、認めてはいけない」と訴える。

◆弁護士・大谷恭子さん『人の死選択できない』

 「死 刑という国家による人為的な死に、国民がどう関心を向けていくのかは、この国の大きなテーマ。死 刑 制 度が存置されているために今は、それを国民が望むことが許されているとも言える」。一審での死 刑言い渡し後に弁護を担当した、連 続 射 殺事件の永山則夫死刑囚(一九九七年執行)の裁判を通じて、制度として人が人の死を選択できることは、社会のあるべき姿として認めてはいけないと思うようになった。

 死 刑が秘密裏に執行されている問題を訴える。「死 刑 囚について表に出る情報が少なく、執行までの生活や、最期に何を考えたのかも知ることができない。悔悟して、人間的な変化もあって『なぜこの人を』と思うような人も処 刑している」。死 刑を州によって存置している米国では、その賛否をいつも論じ、存置派と廃 止派が執行日に刑場の外でぶつかり合う。

 東京拘置所は二〇〇三年に改修した。「この平和な時代に、近代的な人を殺す設備が生活のすぐそばにあることを知れば、多くの国民は驚くと思う」。法曹を目指す大学生や司法修習生に死刑について講義すると、みな真剣になる。「すぐに廃止論者にならなくても、深く考えたいと言い出すことがすごい」

 裁判員制度が始まる前に、死 刑は廃止すべきだったと考える。「人の命の問題が“市民感覚”で議論され、生きてよいとかいけないとか、決められてはいけないと思うから」。裁判員には「どんなことがあっても人は殺さない」という選択を望んでいる。
 おおたに・きょうこ 2006年から3年間、東京拘置所視察委員会委員。「永山子ども基金」代表。連 合 赤 軍 事 件 、 ア イ ヌ 民 族 肖 像 権 裁 判などを担当。著書「それでも彼を死刑にしますか」など。60歳。

◆あすの会・松村恒夫さん『殺人の被害回復無理』

 「遺族の望みは、被害者を返してほしいということ。それができないなら死んで償ってほしい。きれいごとではない」。はっきりとした口調で死 刑 制 度の存置を訴える。
 一九九九年に二歳の孫を殺 害された。加 害 者はこの孫の兄と同じ幼稚園に通う子の母親だった。確定判決は懲 役 十 五 年。「同じ命なのに、被害者は命を奪われ、加害者は生きている」。事件から十一年が経過した今も、割り切れない思いを抱き続けている。
 死 刑について「遺族は事件の前の生活に戻ることはできない。死 刑は通過点にすぎないが、一つの気持ちの整理になるのかもしれない」と話す。被 害 者 遺 族には「執行ボタンを押させてくれ」という人も多いという。
 担当弁護士のもとに昨年、初めて加 害 者から手紙が届いた。今も封を開けていない。仮釈放のためのパフォーマンスとしか受け取れなかったからだ。殺 人 事 件では、遺 族の被 害 回 復は無理だと考える。
 「遺族の多くは、加 害 者に更 生してほしいと思っていない。反省は、ゆるしにつながらない。反省し真人間になっても『だから何なんだ』と言うしかない」

 刑 場 公 開について、「国民が死 刑に関心を持ついい機会だ」と思うが、「死 刑は残酷」という形で国民に伝わることを懸念する。「死 刑 囚は告知され、死ぬ前に読経やミサも受けることができる。被 害 者はいきなり、もっと残酷な方法で命を奪われている。そうした事実にも目を向けてほしい」と話す。

 まつむら・つねお 1999年11月、東京都文京区で娘と幼稚園の母親仲間だった主婦に、2歳の孫娘を殺害された。全国犯罪被害者の会「あすの会」の活動に2001年から加わり、現在、副代表幹事。68歳。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010082802000033.html



加害者の立場に立つか。或いは、被害者遺族の立場に立つか。
それは非常に重要な点だと思う。

ただ、これら片方の立場に立ってはいけないと私は思う。言うなれば「偏った意見」。
私はこの弁護士の言う事も多少は理解できる。
加害者が死 刑になるまでの期間、どのような気持ちで過ごしたのか。
それは被害者家族にも知る権利はあると思っている。
ただ、死 刑 制 度そのものを廃止する必要はない。
それは被害者遺族の気持ちとその意味を考えれば当然の事。
死 刑 制 度は

「目には目を」

ではない。

なぜ死 刑になるのか。
それ自体、

「懲役という枠では収まらない大きな罪」

という意味なのだと思う。
そして、更正を望めない事だと思う。
判決が出てその後に更正したとしても、それ自体更正したという証明にはならない。
罪を犯した後の更正とは、長い年月をかけなければできないからだと思う。
「だからこそ死 刑 廃 止」という声も聞こえるが、それは違う。
加害者が一生をかけても更正したと認められないほどの罪を犯したからこその死 刑だと私は思う。

そこに人権があるのかと言われれば、無いのかもしれない。
しかし、

「権利とは義務を果たしてこその権利である」

と私は思う。
人を殺すという事は、義務を怠るばかりか

「人道に反する行為」

であるのは誰の目から見ても明らかだと思う。
人としての義務ですら尊重出来ない者に、権利を与える必要がどこまであるのか。
例えばそれが傷 害 罪であったとすれば、権利を与える必要に値しないまでも更正の余地がある為 懲 役 刑となる。
もちろん、懲 役 刑を受ければ更正するという証明にはならない。
しかし、そこには「被害者の生存」という大きなポイントがある。
だからこそ懲 役 刑なのではないだろうか?

死 刑を受ける為に殺 人を犯した事 件もある。
しかし、だからといって死 刑 廃 止に繋げるのはおかしいと私は思う。
そういった意味では、今回の刑 場 公 開は良い事だと思う。
少なくとも、

「苦しまずに死ねると考えが間違いである」

という事が分かるからだ。

死 刑 制 度は法を遵守するという意味でも、権利と義務の観点からも必要です。
これまで何度も言っていますが、

「人権とは、義務を果たしてこその権利である」

と思います。