さて、うどんだしに代表される「関西おだし」と「関東おだし」の違いの探求いよいよ最終回です
前回は江戸時代、関西で定着した昆布だしが、関東で根付かなかった理由を探り、その一つが水質の違いにあったというお話でした
今回は、もう一つの大きな理由である江戸時代の物流についてお話しましょう
当時の輸送手段は、当然ながら船が中心で、北前船と呼ばれたその船の役割は、単に荷物を運ぶと言うよりは、各地の物産を売り買いしながら航海をする、動くマーケットのような存在で、廻船問屋とも呼ばれた船問屋は、一航海すれば今の貨幣価値で言うと、1億円程度の収益が上がったと言われています
その船荷の中で重要な地位を占めたのが、実は昆布だったんです
しかしながら、当然航海は、大きなリスクを負います
「板子一枚下は地獄」と言われたほど、危険も大きく、事故に会えば一度に多くの命と財産を失うことになるわけです
中でも北海道からの航海は、本来、大消費地である江戸に近い、太平洋側のルートを取りたかったのですが、海が荒れやすく、海難事故が多発したこともあり、比較的に海が穏やかな、日本海ルートが主に使われていました
当時昆布は、
松前(北海道)
航路
敦賀・若狭(福井)
陸路
大阪・京都
という経路で入ってきており、現在でも福井県は昆布の消費量も多く、たくさんの昆布加工品が作られています
江戸時代中期になると、幕府の御用商人であった河村瑞賢(かわむらずいけん)が、北海道から関門海峡を回り、瀬戸内海を通って、陸路を使わずに大阪に入る西回り航路を開拓しました
これにより昆布は、さらに大量に安く、早く、安全に輸送されることとなり、さらに航海で程よく熟成された大阪の昆布は、太平洋航路で直接江戸に運ばれた昆布より、美味しいと評判となり、当時大阪は日本最大の昆布集積地となっていきました
こうした環境の中、関西で昆布だしが定着し、そして当時の大阪の中心地であった船場の料理人達が、経験を通して昆布とかつお節とのうま味の
相乗効果に気付き、のちに「昆布以前と昆布以降とでは、味覚の歴史が変わった」と言われる、現在の和食のベースである合わせだしを作り上げたと言われています
この時、江戸にとって不幸だったのは、大阪から昆布が運ばれる中で、質の良い昆布は、ほとんどが江戸に着くまでに売れてしまい、質の悪い昆布のみが届けられたことでした
結果、質の悪い昆布を、だしの出にくい水でとった昆布だしは、関東では受け入れられず、かつお節で濃厚なおだしを取る文化が定着したわけです
ちなみにこの濃厚なおだしには、関西の淡口醤油では頼りなく、うま味の強い濃口醤油が関東で生まれました
こうして、薄味好みの関西人に合わせて、昆布だしをベースにしっかりとうま味がでたおだしに少量の淡口醤油で味付けした「関西おだし」と、濃い味付けを好む関東人に合わせ、かつお節で濃厚に取ったおだしに、しっかりとしたうま味と味の濃口醤油をたっぷり使った「関東おだし」が生まれたというわけです
おだしの地域による違いと歴史は、まだまだたくさんありますが、それはまた、別の機会に
では、また