私は栗原静子、今草むらの中にいる。

 

どこから来たのかも、ここがどこなのかも分からない。

 

気付くと原っぱで空を見上げるようにして寝そべっていた。

 

空は夕方か明け方なのか、濃い群青の背景に星が柔らかく輝き、

意識は薄く微睡んでいる。

 

草地の向こうに古びれた廃墟がある。60年も前の童心が

蘇るようにして、そこに導かれる。

 

立派であったろう主不在の洋館が出迎える。

 

ドアには鍵がかかっておらず、私は重い扉を

力が入らない腕に無理やりに命令してこじ開ける。

 

赤い絨毯の敷かれたフロアと階段が目に入ってきた。

 

外観とは異なり、先ほどまで人が居たかのような佇まい、

 

不思議な事に明かりは燈されていた。

 

 

一階の奥の方の部屋から音楽が聞こえてくる。

 

主人の好きだったショパンのノクターン第弐番変ホ長調のようだ。

 

懐かしさが込み上げて、調和的な音の方へ足が一歩ずつ進んでいく。

 

 

 

誰が居られるのだろう?


他人様の館に勝手に入った上に好奇心のまま部屋を覗きに行って

怒られはしないだろうか。


 

少しだけ


少しだけ

 

 

少しだけでいいのです。

 

部屋のドアは少し開いていた。私は開き戸の釁隙から覗いてみた。


そこには紛れもなく若かりし日の主人の姿があった。


「清さん!!」


主人がこちらに気付き笑顔で口元が動き何かを言おうとした時である、


 

「おばあちゃんまだだよ。」


 

孫の声が背中の方から聞こえて来た。


洋館が姿を消し、暗闇になった。

 

 

 

閉じていた目を開けると自分の部屋の丸型蛍光灯が目に入ってきた。


 

 

清さん私がそちらに行くのはまだのようです。


もうしばらくの間お待ちください。


その時には昔のように一緒にショパンを聴ききましょう。


静子はあなたの事をずっと想っています。

また会いましょう。


静子