報恩抄 下 (訳文-1)

 日本国は、一同に、慈覚・智証・弘法の流れを汲むようになってしまいました。
 一人として、謗法を犯していない者はおりません。

 ただし、このような事に陥った根源を勘案してみると、あたかも、大荘厳仏の世の
末のようであり、一切明王仏(師子音王仏)の末法のようであります。

 (注記、『大荘厳仏の世の末』とは、仏蔵経において、大荘厳仏の涅槃の後に、空
の法義を継承した普事比丘が、四比丘の衆から誹謗されたことを示されている。
 『一切明王仏』は、『師子音王仏』のお書き誤り。諸法無行経において、師子音王
仏の末法に、諸法の実相を説かれた喜根比丘が、勝意比丘等から誹謗されたことを示
されている。)

 威音王仏(威音王如来)の末法においては、改悔があったとしても、なお、千劫と
いう極めて長い間、阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちました。

 (注記、威音王仏とは、法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている如来のこと。威
音王如来の像法の末に御出現された常不軽菩薩は、一切衆生を但行礼拝した。しかし、
増上慢の四衆から、杖木瓦石等の迫害を受けられている。一方、常不軽菩薩を迫害し
た者たちは、その罪によって、千劫の間阿鼻地獄に堕ちたが、法華経との逆縁によっ
て救済されている。上記の御金言は、その法華経常不軽菩薩品第二十の御記述の内容
を指されている。)

 ましてや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は、一分の改心もありません。
 法華経譬喩品第三に仰せの「如是展転、至無数劫」(是くの如く展転して、無数劫
の間、無間地獄に至る。)は、疑いのないことでしょう。

 このような謗法の国になってしまったため、諸天からも捨てられました。
 諸天がこの国を捨てられると、古くから日本国を守護されていた善神も、祠を焼き
払われて、寂光土の都へお帰りになってしまいました。
     
 ただ、日蓮だけが、この国に留まり残って、謗法を告げ示すと、国主は、この事(日
蓮大聖人の折伏)を怨みました。
 そのため、数百人の民を用いて、或いは罵詈を行ったり、或いは悪口を言ったり、
或いは杖木で打ったり、或いは刀剣で斬ったり、或いは宅々ごとに封鎖したり、或い
は家々ごとに追い払いをしました。

 それが叶わなければ、今度は、国主自らが手を下して、二度までも、私(日蓮大聖人)
を流罪(伊豆御流罪・佐渡御流罪)に処しました。
 そして、去る文永八年九月十二日には、龍口の地において、私(日蓮大聖人)の首を
切ろうとしました。

 最勝王経(金光明経)においては、「悪人を愛敬して、善人を治罰する由来の故に、
他方(他国)から怨賊が到来して、国の人民は喪乱に遭遇する。」等と、仰せになら
れています。

 大集経においては、「もし、また、諸の武士や国王が諸の非法を行って、世尊の声
聞の弟子を悩ませたり、もしくは、毀(そし)ったり、罵(ののし)ったり、刀杖を
以て打撃したり、及び、衣や鉢等の種々の資材・仏具を奪い、もしくは、他者からの
給施(布施)に妨害を起こす者があるならば、我等は、彼等に対して、自ずと、即座
に、他方(他国)からの怨敵を蜂起させるであろう。及び、自国内の領土にも、また、
兵が決起して、疫病・飢饉・季節はずれの風雨・闘争・訴訟が発生するであろう。ま
た、その王をしても、権力が久しいことはなく、また、当に、自らの国を亡失させる
であろう。」等と、仰せになられています。

 これらの経文の通りであるならば、日蓮がこの国にいなければ、仏(釈尊)は大妄
語の人となって、阿鼻地獄(無間地獄)は如何にしても脱れることが出来ないでしょ
う。

 去る文永八年九月十二日に、私(日蓮大聖人)は、平左衛門尉並びに数百人の兵士
に向かって、「日蓮は、日本国の柱である。日蓮を失うことになれば、日本国の柱を
倒す行為になる。」等と、云いました。

 前記の経文(最勝王経・大集経)には、「国主たちが、悪僧どもの讒言によって、
もしくは、諸の人々の悪口によって、智人を刑罰に処するならば、即座に、戦が起こ
り、また、大風を吹かせたり、他国から攻められるであろう。」という主旨のことが
記されています。

 去る文永九年二月の北条一門の同士討ちの戦(二月騒動)、文永十一年四月の大風
の発生、文永十一年十月に大蒙古が襲来したことは、偏(ひとえ)に、日蓮に起因す
ることであります。
 ましてや、以前より、私(日蓮大聖人)は、これらの事を勘文(立正安国論等の御
提出)しておりました。誰人を以て、疑うことが出来るのでしょうか。
     
 弘法・慈覚・智証の誤り、並びに、禅宗と念仏宗に基づく災いが相次いで起こった
有様は、まさしく、逆風に大波が起こったり、大地震が重なったようなものでありま
す。
 従って、次第に、日本国も衰えて参りました。

 太政入道(平清盛)が国の実権を握った後に、承久の時代に入ってから、三名の上
皇が流罪に処されて、世(国権)は、東(鎌倉)に移りました。
 けれども、ただ、国の中が乱れただけであって、他国から攻められる事はありませ
んでした。

 その当時も、謗法の者は、国に充満していました。
 けれども、その謗法を明示して、顕すほどの智人がいなかったのです。
 故に、現今(日蓮大聖人御在世当時)と比較すれば、まだ、平穏な状況でした。
   
 そのことを譬えると、眠れる師子に手を付けなければ、吼えないようなものであり
ます。
 速い流れであっても、櫓(ろ)を差さなければ、波は高くなりません。
 盗人であっても、盗みを止めさせなければ、怒ることはありません。
 火は、薪を加えなければ、炎が盛んになることはありません。

 謗法があったとしても、それを顕す人がいなければ、一見、国も穏やかであるよう
に、見受けられます。
 その例を提示すると、日本国に仏法が渡来し始めた頃に、始めは何事もなかったの
ですが、物部守屋が仏像を焼いたり、僧を迫害したり、寺の堂塔を焼いたため、天か
ら火の雨が降り、国に疱瘡(ほうそう)が発生して、兵乱が続いたようなものです。
   
 しかし、この度(日蓮大聖人御在世当時)は、その当時とは比較にならないほどの
状況であります。

 謗法の人々は、国に充満しています。それに対して、日蓮の大義(日蓮大聖人の御
法義)も強く攻めかかっています。
 その様子は、修羅と帝釈との合戦や、仏と魔王との合戦にも、劣るものではありま
せん。

 金光明経(最勝王経)においては、「時に、隣国の怨敵が、このような念を起こす
であろう。当に、四兵(象兵・馬兵・車兵・歩兵)を揃えて、その国土を崩壊させる
であろう。」等と、仰せになられています。

 また、金光明経(最勝王経)においては、「時に、王が様子を見終わって、即ち、
四兵(象兵・馬兵・車兵・歩兵)を率いて、その国に行軍して、討罰を為そうとする。
我等は、その時、当に、眷属や無量無辺の薬叉等の諸天善神と共に姿を隠しながら、
守護・助勢を行う。ならば、その怨敵によって、自然に(自ずと)、降伏することに
なるであろう。」等と、仰せになられています。

 最勝王経(金光明経)の経文は、以上の通りであります。
 また、大集経や仁王経にも、同様の内容が記されています。 

 これらの経文(金光明経・大集経・仁王経)の通りであるならば、正法を行ずる者
を国主が怨み、邪法を行ずる者の味方を国主が行うならば、大梵天王・帝釈天王・大
日天王・大月天王・四天王等が隣国の賢王の身に入れ代わって、その国を攻めるよう
に見受けられます。

 例えると、仏教に敵対した訖利多王を雪山下王が攻めたり、仏法の僧侶を弾圧した
大族王を幻日王が滅ぼしたようなものであります。

 訖利多王と大族王は、月氏(インド)の仏法を失わせた王であります。
 漢土においても、仏法を滅ぼした王は、皆、賢王に攻められています。

 けれども、この度(日蓮大聖人御在世当時)は、その当時と比較にならないほどの
状況であります。

 国主は仏法の味方をするようでありながら、実際には、仏法を失う法師(僧侶)の
味方をしている故に、愚者は、全ての状況を知ることが出来ません。
 智者であったとしても、通常の智人には、知り難いものがあります。
 諸天であったとしても、劣った天人には、知らないこともあるでしょう。

 ならば、古来の漢土(中国)・月氏(インド)の乱れよりも、現在(日蓮大聖人御
在世当時)の日本国の乱れの方が大きいことになります。

 法滅尽経においては、「私(釈尊)が涅槃した後、五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・
出仏身血・破和合僧)の盛んな濁った世に、魔道が興こり、盛んになる。そして、魔
が沙門(僧侶)の姿となって、我が道(仏道)を壊乱するであろう。(中略)悪人は
海中の砂のように多く、善者は極めて少ない。一人、若しくは、二人ぐらいであろう。」
と、仰せになられています。

 涅槃経においては、「このような涅槃経典を信ずる者は、爪の上に載った土のよう
に少ない。(中略)この経を信じない者は、十方世界が所有する大地の土のように多
い。」等と、仰せになられています。

 これらの経文(法滅尽経・涅槃経)は、私(日蓮大聖人)の肝に染みました。
 当世の日本国においては、「自分も、法華経を信じている、信じている。」と、諸
の人々が言っています。
 彼等の言葉の通りであるならば、一人も、謗法の者がいないことになります。

 しかしながら、これらの経文(法滅尽経・涅槃経)おいては、「末法には、謗法の
者が十方世界の大地の土のように多く、正法の者は爪の上に載った土のように少ない。」
という主旨のことが記されています。
 従って、経文と世間の人々の評価は、水と火のように、異なっています。

 世間の人々は、「日本国においては、日蓮一人だけが謗法の者である。」等と、云
っています。
 これもまた、経文とは、天と地のように、異なっています。

 法滅尽経においては、「善者は一人。若しくは、二人。」等と、仰せになられてい
ます。
 涅槃経においては、「信ずる者は、爪上の土。(爪の上に載った土のように少ない)」
等と、仰せになられています。

 経文の通りならば、日本国においては、ただ、日蓮一人だけが『爪上の土』であり、
『一人・二人』に該当するのであります。

 経文を用いるべきなのでしょうか。それとも、世間の人々の言葉を用いるべきなので
しょうか。

 質問致します。

 涅槃経の経文には、「涅槃経の行者は、爪の上に載った土のように少ない。」等と、
仰せになられています。

 ところが、貴殿の義においては、「法華経の行者は、爪の上に載った土のように少
ない。」等と、云われています。
 これは、如何なることでしょうか。

 お答えします。

 涅槃経においては、「法華経の中の如し。」等と、仰せになられています。

 妙楽大師は、『法華文句記』において、「大経(涅槃経)自らが、法華経を指して、
至極の経典と為している。」等と、仰せになられています。

 『大経』(大般涅槃経)と云う経典は、涅槃経のことです。
 涅槃経においては、法華経を『至極の経典』と指しています。

 ところが、涅槃宗の人が、「涅槃経は、法華経に勝っている。」と申していること
は、あたかも、主人を所従と言い、下郎(部下)を上郎(上長)と言っているような
ものであります。   

 涅槃経を読むということは、法華経を読むということであります。
 譬えば、賢人は、自分のことを見下されたとしても、国主を重く扱う者のことを悦
ぶようなものです。
 涅槃経は、法華経を見下して、自ら(涅槃経)を誉める人のことを、返って、敵と
して憎まれます。

 この例を以て、知るべきです。
 華厳経・観無量寿経・大日経等を読む人も、「法華経が劣っている。」と思いなが
ら読むことは、それらの経々(華厳経・観無量寿経・大日経等)の心に背いているの
であります。

 この件によって、知るべきです。
 法華経を読む人が、この経(法華経)を信じるようであったとしても、「諸経にお
いても、得道(成仏)が出来る。」と思うことは、この経(法華経)を読まない人に
該当するのであります。
     
 例を挙げると、三論宗の嘉祥大師は、『法華玄論』と云う十巻の文書を作って、法
華経を讃歎しました。
 けれども、妙楽大師は、嘉祥大師を責められて、「法華経に対する毀(そし)りが、
その書物の中に在る。何故に、法華経の弘教・讃歎と成るのであろうか。」等と、仰
せになられています。

 このように、嘉祥大師は、法華経を破る人でした。
 しかし、その後、嘉祥大師は見解を翻して、天台大師に仕えました。

 そして、「私(嘉祥大師)は、人前で法華経を読まない。何故なら、私(嘉祥大師)
が法華経を読むならば、悪道が免れ難いからだ。」と云って、七年の間、自らの身を
橋として、天台大師の踏み台にされました。

 法相宗の慈恩大師には、『法華玄賛』と題した、法華経を讃歎している文書が十巻
あります。
 伝教大師は、その文書を責められて、「法華経を讃歎していると雖も、還って、法
華経の心を殺している。」等と、仰せになられています。
     
 これらの事例から考えてみると、法華経を読んで讃歎する人々の中に、無間地獄に
墜ちる者が多く存在しています。

 嘉祥大師や慈恩大師でさえ、既に、一乗(一仏乗の教え=法華経)を誹謗した人に
なります。
 ましてや、弘法・慈覚・智証が、何故に、法華経を蔑如した人にならないのでしょ
うか。

 嘉祥大師のように、主宰していた講を廃止して、集っていた聴衆を解散して、自ら
の身を橋として、天台大師の踏み台になられたとしても、なお、それ以前に犯した、
法華経誹謗の罪は消えることがないでしょう。

 法華経常不軽菩薩品第二十において、不軽菩薩を軽蔑して毀(そし)った者どもは、
その後、不軽菩薩に信伏随従を申し上げました。
 けれども、未だに、重罪が残って、千劫という極めて長い間、阿鼻(無間)地獄に
堕ちたのであります。

 ならば、弘法・慈覚・智証等は、たとえ、翻す心があったとしても、なお、人前で
法華経を読むのであれば、重罪は消え難いのです。
 ましてや、彼等には、翻す心もありません。また、法華経を失い、真言密教を昼夜
に行い、朝夕に伝法している者どもであります。

 世親菩薩・馬鳴菩薩は、小乗経を以て、大乗経を破った罪に対して、舌を切ろうと
さえしました。
 世親菩薩は、「仏説であったとしても、阿含経(小乗の経典)を、戯れにも、舌の
上には置かない。」と、誓いました。
 馬鳴菩薩は、懺悔のために、『大乗起信論』を作って、小乗経を破折されました。
 
 嘉祥大師は、天台大師を招請されてから、百人余りの智者の前で、五体を地に投げ、
全身から汗を流し、紅の涙を流しながら、「今からは、弟子を見ない。法華経を講じ
ることもない。弟子の顔を眺めて、法華経を読み奉るならば、如何にも、私(嘉祥大
師)に力があって、法華経を知悉しているように、誤解をされるからだ。」と、云い
ました。

 そして、嘉祥大師は、天台大師より高僧・老僧であったにもかかわらず、わざと、
人が見ている時に、天台大師を背負われて河を越えたり、御説法の高座に近づいてか
ら、天台大師を自ら(嘉祥大師)の背中に乗せられて、高座に上らせ奉ったのであり
ます。

 最終的に、嘉祥大師は、天台大師が御臨終を迎えられた後に、隋の皇帝の許に見参
をされました。
 その際に、嘉祥大師は、まるで、小児が母に先立たれた時のように、足を擦りなが
ら泣いていました。
    
 嘉祥大師の『法華玄論』を見ると、特段、法華経を誹謗した疏(注釈書)ではあり
ません。
 ただ、『法華玄論』には、「法華経と諸大乗経(法華経以外の全ての大乗経)には、
法門に浅深があったとしても、その心は一つである。」と、書かれてあります。
 これが、謗法の根本になるのでしょうか。

 華厳宗の澄観においても、真言宗の善無畏においても、彼等の著書には、「大日経
と法華経は、理が一つである。」と、はっきり書かれてあります。
 嘉祥大師に罪科があるならば、善無畏三蔵も、謗法の罪科を脱れ難いのです。
    
 
 そもそも、善無畏三蔵は、中天(中インド)の国主でした。
 善無畏三蔵は、その位を捨てて他国に赴き、殊勝・招提の二人に会ってから、法華
経を伝授されました。
 そして、百・千にも及ぶ石の塔を立てたため、法華経の行者のように見受けられま
した。

 しかしながら、善無畏三蔵は、大日経を習い始めてから、「法華経は、大日経より
劣っている。」と、思うようになったのでしょうか。

 当初、善無畏三蔵は、それほど、上記の義を抱いていなかったのです。
 けれども、漢土(中国)に渡来して、玄宗皇帝の師となった頃から、天台宗を嫉ん
で思う心が芽生えたのでしょう。

 それ故に、善無畏三蔵は、忽(たちま)ちに、頓死(急死)しました。
 そして、二人の獄卒から、鉄の縄を七本付けられて、閻魔大王の王宮に連れて行か
れました。      

 後漢の時代に、インドから中国へ仏教が伝来して以来、四百余年が経過しました。
 像法時代の五百年代に入ると、陳・隋(中国)の時代において、『智ギ』という
小僧が御一人いらっしゃいました。
 後には、『天台智者大師』と号し奉られた方であります。

 天台大師は、『南三北七』の邪義を破折された上で、「釈尊御一代聖教の中にお
いては、『法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三』である。」等と、お定めになら
れました。

 以上、大集経でお説きになられている、像法時代前半の五百年間・『読誦多聞堅
固』の時代(経典の読誦と御説法の聴聞が盛んに行われる時代)の概要であります。

 それから、善無畏三蔵が「命は、未だに尽きていない。」と云うと、閻魔王宮から
帰されました。
 すると、法華経謗法の罪と思ったのでしょうか。

 善無畏三蔵は、真言宗の観念や印・真言等を投げ捨てて、法華経譬喩品第三の『今
此三界』(注、「今、此の三界は、皆、是れ我が有なり。」→「欲界・色界・無色界
の三界は、皆、仏が所有されている。」という意味。)の経文を唱えると、鉄の縄も
切れて、この世に戻されました。

 また、善無畏三蔵が玄宗皇帝から祈雨を仰せつけられた際には、忽(たちま)ちに、
雨が降りました。
 けれども、大風が吹いて、国を破壊しました。

 結局、善無畏三蔵が亡くなった際には、弟子等が集まって、臨終の立派な様子を褒
めていました。
 けれども、善無畏三蔵は、無間大城(無間地獄)に堕ちました。
     
 質問致します。

 何故に、善無畏三蔵が地獄に堕ちた事を知っているのでしょうか。

 お答えします。

 彼の伝記(宋高僧伝)を見ると、「今、善無畏の遺体を観ると、身体が次第に縮小
して、黒い皮膚が陰惨に広がり、骨が露わになっている。」等と、記されています。

 善無畏三蔵の弟子等は、師の死後に、地獄の相が顕れた事を知らずして、善無畏三
蔵の徳を称えているように思われます。
 けれども、書き表した筆記は、返って、善無畏三蔵の過失を記述しているのです。

 前記の通り、善無畏三蔵が死亡した後には、「身体が次第に縮小して、黒い皮膚が
陰惨に広がり、骨が露わになっている。」等と、伝記(宋高僧伝)に書かれています。
 しかしながら、「人が死んだ後に、色が黒くなることは、地獄の業である。」と、
お定めになられた事は、仏陀(釈尊)の御金言(正法念経等が御出典)であります。
     
 では、善無畏三蔵が地獄に墜ちた業因は、何事になるのでしょうか。

 善無畏三蔵は、幼少の時に、国主の位を捨てています。これは、第一の道心であり
ます。
 その後、善無畏三蔵は、月氏(インド)の五十余りの国において、修行しています。
 慈悲の深さのあまりに、善無畏三蔵は、漢土(中国)にも渡来しています。

 天竺(インド)・震旦(中国)・日本・一閻浮提(全世界)の中に真言を伝えて、
鈴を振りながら弘経したことは、まさしく、この人(善無畏三蔵)の徳であります。
 にもかかわらず、「如何にして、地獄に堕ちたのであろうか。」と、後生を願おう
とする人々は御尋ねをするべきです。    
 
 また、金剛智三蔵は、南天竺(南インド)の大王の太子(皇太子)でありました。
 金剛智三蔵は、金剛頂経を漢土(中国)に伝来させています。その徳は、善無畏三
蔵に匹敵しています。
 そして、善無畏三蔵と金剛智三蔵は、互いに師となりながら、真言密教を相伝しま
した。

 しかるに、金剛智三蔵が玄宗皇帝の勅宣によって、祈雨をしたところ、七日の間に
雨が降ってきました。
 天子(玄宗皇帝)が大いに悦んでいると、忽(たちま)ちに、大風が吹いて来まし
た。

 王(玄宗皇帝)や臣下等は興醒めした故に、使者を派遣して、金剛智三蔵を追放し
ようとしました。
 けれども、どうのこうのと云っている間に、金剛智三蔵は、漢(中国)の国内に留
まることになりました。

 結局、金剛智三蔵は、玄宗皇帝の姫宮が御死去された際に、「生き返るための祈祷
を為しなさい。」という旨の御命を受けています。
 そのため、金剛智三蔵は、姫宮の身代わりとして、宮中の七歳の少女二人を、薪の
中に詰め込んで、焼き殺しています。

 まさしく、この事こそ、無慙(無惨)に思われます。しかも、玄宗皇帝の姫宮も生
き返らなかったのです。   
    
 不空三蔵は、月支(インド)から、金剛智三蔵の御供をしてきました。
 故に、不空三蔵は、これらの事(善無畏三蔵と金剛智三蔵の行状)を不審に思った
のでしょう。

 善無畏三蔵と金剛智三蔵が入滅した後に、不空三蔵は月支(インド)へ帰って、竜
智菩薩にお会いになりました。 
 そして、真言の教義を習い直して、天台宗に帰伏しました。
 ところが、心の中だけは天台宗に帰伏していても、不空三蔵の身は帰伏する事があ
りませんでした。

 不空三蔵も、玄宗皇帝からの祈雨の勅宣を受けています。
 祈祷を始めてから三日が経つと、雨が降ってきました。
 天子(玄宗皇帝)はお悦びになって、御自らが御布施を下されています。     

 ところが、しばらくすると、大風が荒れ下って、内裏を吹き破りました。
 そして、雲閣月卿(殿上人→玄宗皇帝)の宿所も、一ヶ所も残ることなく、破壊さ
れたように見えました。

 そのため、天子(玄宗皇帝)は大いに驚いて、「風を止めよ。」と、宣旨を出され
ました。
 しかし、風が吹いた後、一時的に止んだとしても、しばらくすると、また、風が吹
いてくる有様でした。
 そういう状況が数日間続いて、風が止む事はありませんでした。

 結局、玄宗皇帝の使者が派遣されて、不空三蔵が追放されることにより、風が止ん
だのであります。

 この三人(善無畏・金剛智・不空)が引き起こした悪風は、漢土(中国)・日本に
おける、一切の真言師が引き起こした大風の根源であります。

 なるほど、そういうことでしょう。
 去る文永十一年四月十二日の大風は、東寺第一の智者と称された、阿弥陀堂・加賀
法印の祈雨によって、吹いてきた逆風であります。

 この史実(文永十一年四月十二日の大風)は、善無畏・金剛智・不空の悪法を、少
しも違えることなく、伝えているのでしょうか。
 誠に、心憎いことであります。心憎いことであります。
     
 弘法大師は、去る天長元年の二月の大旱魃(かんばつ)の際に、祈雨をしたことが
あります。
 その直前には、守敏が祈雨をして、七日の内に、雨を降らせました。
 ただし、京の都の中だけに雨が降って、田舎に雨が注ぐ事はありませんでした。

 その次に、弘法が受け継いで、祈雨をしました。
 一七日(一週間)経っても、雨の氣配はありません。
 二七日(二週間)経っても、雲さえありません。

 三七日(三週間)が経過すると、天皇が和氣真綱を使者として、御幣(神に奉ずる
幣)を神泉苑に捧げられました。
 すると、雨が三日間降りました。

 このような経緯がありながら、弘法大師並びに弟子等が、この雨を奪い取り、「自
らの祈雨によって、降らせた雨である。」と、言い触らしていました。
 そして、今(日蓮大聖人御在世当時)に至るまで、四百余年の間、「弘法の雨」と
言っています。 
             
 慈覚大師は、「夢で、日輪(太陽)を射った。」と、云っています。
 一方、弘法大師は、「弘仁九年の春に、大疫病の治癒を祈ると、夜中に、大日輪(太
陽)が出現した。」と、大妄語を述べています。

 しかし、成劫以来、住劫の第九の減に至るまで、以上・二十九劫の間に、「日輪(太
陽)が夜中に出た。」という史実はありません。

 (注記、仏教の経典では、『成・住・壊・空』の『四劫』が説かれている。
 ある世界が成立して、流転・破壊を経てから、次の成立に至るまでの期間を、『成劫・
住劫・壊劫・空劫』の四つに分けられている。

 上記御金言の「成劫」とは、世界が生成していく時代のこと。
 また、上記御金言の「住劫」とは、世界が安定・構築していく時代のことになる。

 そして、『成劫・住劫・壊劫・空劫』は、それぞれ、二十劫ずつに分かれている。
 その一劫は、人寿が十歳から八万歳まで増えて、また、八万歳から十歳まで減ってい
く期間となる。

 上記御金言の「住劫の第九の減」とは、『住劫』の二十劫における、第九番目の減の
時期を意味している。
 また、上記御金言の「二十九劫が間」とは、『成劫』の二十劫+『住劫』の九劫=『二
十九劫』を意味している。)

 前記の通り、慈覚大師は、「夢で、日輪(太陽)を射った。」と、云っています。

 では、五千巻とも七千巻とも云われる内典(仏教の書物)や、三千巻余りと云われる
外典(仏教以外の書物)において、「日輪(太陽)を射る夢は、『吉夢』である。」と
いう事が記述されているのでしょうか。
 それとも、そういう記述は、存在しないのでしょうか。
    
 修羅は、帝釈天王を怨んで、日天(太陽・大日天王)を射っています。
 ところが、その矢が返って、自ら(修羅)の眼に刺さっています。

 中国の殷の紂王は、日天(太陽・大日天王)を的にして射ったことにより、身を滅
ぼしています。

 日本の神武天皇の御時代には、度美長(注、長髄彦のこと。大和地方の土豪の首長)
と五瀬命(神武天皇の兄)が合戦をしています。

 その際、五瀬命(神武天皇の兄)の手に矢が刺さると、「我(五瀬命)は、日天(太
陽・天照大神)の子孫である。日(太陽)に向かい奉って、弓を引いたが故に、日天
(太陽・天照大神)からの責めを被ることになる。」と、五瀬命(神武天皇の兄)は
告げられています。

 インドの阿闍世王は、仏(釈尊)に帰依をなされました。
 ある時、阿闍世王は、内裏(宮殿)に帰って、御眠りになっていました。

 すると、阿闍世王が驚いた様子で、「日輪(太陽)が、天から地に落ちる夢を見た。」
と、臣下たちに向かって語りました。
 臣下たちは、「仏(釈尊)の御入滅なのでしょうか。」と、云いました。

 須跋陀羅の夢も、また、同様のことを意味しています。

(注記、須跋陀羅は、釈尊御入滅の直前に、教化を受けて得道した弟子である。

 ある晩、「一切の人が目を失い、裸形で闇の中に立っている。太陽は落ち、地は破
れ、大海は乾き、大風が須弥山を吹き散らしている。」という夢を、須跋陀羅が見た。

 その翌朝、須跋陀羅は、釈尊が今夜半に涅槃する知らせを聞いた。そのため、釈尊
の許へ、須跋陀羅はお会いに行かれた。

 その場で、須跋陀羅は出家して、釈尊御入滅の日の夜に、羅漢となっている。)

 我が国(日本国)において、日(太陽)を射ったり、日(太陽)が落ちたりするよ
うな夢は、特に、忌むべき夢であります。
 何故なら、神(守護の善神)のことを、『天照』(天照大神)と称しているからで
す。
 そして、国のことを、『日本』と称しているからです。

 また、教主釈尊を、『日種』と申し上げています。
 摩耶夫人(釈尊の御母様)が日(太陽)を御懐妊された夢を御覧になって、御授か
りになられた太子が、後に、教主釈尊となられたことに由来しています。    

 慈覚大師は、大日如来を比叡山に立ててから、釈迦仏を捨てています。
 そして、真言三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)を崇めて、法華三部経(法華
経・無量義経・普賢経)の敵となったが故に、この夢(太陽を射った夢)が出現した
のであります。

 ここで、事例を提示します。

 漢土(中国)の善導は、当初、密州の明勝という者にお会いして、法華経を読んで
いました。
 ところが、後に、道綽に会ってから、法華経を捨てて、観経(観無量寿経)に依拠
した疏(注釈書)を作りました。

 そして、善導は、法華経を『千中無一』(千人の中で、一人も成仏することが出来
ない。)と定めました。
 その一方で、念仏を『十即十生・百即百生』(十人いれば十人とも、百人いれば百
人とも、往生することが出来る。)と定めました。

 その後、自らの法義を成就させようとするために、善導は、阿弥陀仏の御前におい
て、「仏意に叶っているのでしょうか。それとも、叶っていないのでしょうか。」と、
祈誓を為しました。

 それから、毎晩、夢の中で、常に、一人の僧が来現して、善導に指導・教授をした
そうです。 
 そして、その僧は、「もっぱら、経法の通りにせよ。」と、語ったそうです。

 それらの事柄が、観念法門経(善導の著書)等に記されています。
   
 法華経方便品第二においては、「もし、法を聞く者があれば、一人として、成仏し
ないことはない。」と、仰せになられています。
 一方、善導は、「法華経は、千人の中で、一人も成仏することが出来ない。」等と、
云っています。

 法華経と善導の主張とは、水・火のように、正反対です。

 善導は、観経(観無量寿経)のことを、「十即十生・百即百生」(十人いれば十人
とも、百人いれば百人とも、往生することが出来る。)と、云っています。
 しかし、無量義経においては、観経(観無量寿経)等のことを、「未だに、真実を
顕していない。」等と、定義づけられています。

 無量義経と楊柳房(注、善導のこと。善導が柳の木から身を投げて死亡したことを
暗示されている。)の主張とは、天・地のように、正反対です。

 にもかかわらず、上記の内容を、「阿弥陀仏が僧となって来現されたから、善導の
主張は真実である。」と証明しようとしても、如何にして、本当の事と受け止められ
るのでしょうか。

 そもそも、阿弥陀仏は、法華経の御説法の座に来られて、舌を出されなかった(法
華経が真実の教えであることを証明されなかった)のでしょうか。
 観音菩薩・勢至菩薩は、法華経の御説法の座にいなかったのでしょうか。

 この事例を以て、類推しなさい。「慈覚大師の御夢は、災いである。」ということ
を。

 質問致します。

 弘法大師の『般若心経秘鍵』においては、このように云われています。

 「時に、弘仁九年の春、天下に大疫病が流行した。

 因って、嵯峨天皇御自らが筆端を黄金に染められて、紺色の紙を爪掌(手)に握り、
般若心経一巻を書写し奉った。
 私(弘法大師)は、般若心経講読の任に選ばれ、その立場に則って、経旨の大意を
綴った。
 
 すると、未だに、結願の詞(仏事の終結の際に発する言葉)を発していなかったに
もかかわらず、疫病から蘇生した人々が道に佇んでいた。
 そして、夜が変じて、日光が赫々と輝いていた。

 これは、愚身(弘法大師の身)の戒徳ではない。
 金輪(嵯峨天皇)の御信力の所為である。

 ただし、神舎に詣でようとする輩は、この秘鍵(般若心経秘鍵)を誦し奉るように
せよ。
 昔、私(弘法大師)は、霊鷲山の御説法の際に、莚(むしろ)に座して、親しく、
その深文を聞き奉っている。

 何故に、その義(霊鷲山の御説法の義)に達していないことがあろうか。」と。

 『孔雀経音義』(弘法の弟子・真済の著書)においては、このように云われていま
す。

 「弘法大師が日本へ御帰国した後に、真言宗を立てようと欲していた。そのため、
諸宗の人々を、朝廷に集合させた。諸宗の人々は、弘法大師の即身成仏の義を疑って
いた。

 そこで、弘法大師は、智拳の印(金剛界の大日如来が結んでいる拳の印)を結んで、
南方に向かうと、急に面門(口)が開いて、金色の毘盧遮那仏と成った。
 その直後には、すぐ、弘法大師の本体に戻っていた。

 すると、諸宗の人々は、「入我我入の事(注、仏が我が身に入ったり、我が身が仏
に入ったりする事)や即身頓証(即身成仏)の疑いは、この日を以て、釈然と氷解し
た。」と、語った。
 このようにして、真言瑜伽の宗(瑜伽の修行をする真言宗)と真言密教の曼荼羅の
道法は、この時から建立された。」と。

 また、『孔雀経音義』においては、このように云われています。

 「この時に、諸宗の学徒は、弘法大師に帰依して、始めて真言を得た。そして、諸
宗の学徒は、益々、要請をして、習学した。

 三論宗の道昌、法相宗の源仁、華厳宗の道雄、天台宗の円澄等は、皆、その法類で
ある。」と。

 『弘法大師伝』(弘法の伝記)においては、このように云われています。

 「日本へ帰国する船に乗られる日、弘法大師が発願して、『私(弘法大師)が学ん
だ所の教法に、もし、感応する地があるならば、この三鈷(注、三鈷の杵のこと、真
言密教の祈祷に用いる道具。)は、その場所に到るであろう。』と、仰った。

 それから、日本の方に向かって、弘法大師が三鈷を投げ上げると、遥かに飛んで、
雲に入った。
 こうして、弘法大師は、十月に御帰国された。」と。

 また、『弘法大師伝』においては、このように云われています。

 「高野山の下に、入定の所(禅定に入る場所)を決められた。(中略)日本に帰国
される船の海上から投げた三鈷は、今、新たに、此処で発見された。」と。

 この大師(弘法大師)の徳は、無量であります。まだ、その徳の二・三例だけを、
示したに過ぎません。
 弘法大師には、このような大徳があるにもかかわらず、何故に、この人(弘法大師)
を信じることなくして、還って、阿鼻地獄に堕ちると云うのでしょうか。