安国論御勘由来


 文永五年(1268年)四月五日 聖寿四十七歳御著作

 正嘉元年(1257年)八月二十三日午後九時頃、日本の歴史上に類を見ないほどの大地震が起こりました。

 正嘉二年(1258年)八月一日には、大風が発生しました。

 正嘉三年(1259年)には、大飢饉が発生しました。

 正元元年(1259年)には、大疫病が発生しました。

 そして、翌年の正元二年(1260年)になっても、一年を通じて、大疫病が治まる氣配はなかったのです。

 この国の民衆の大半以上は、既に、亡くなってしまいました。
 それ故に、国主は驚いて、内典の仏教ばかりではなく、外道の信仰にもすがって、災難を対治するための様々な御祈祷を命じました。

 しかしながら、全く、効き目はありません。
 かえって、飢饉や疫病等が増すばかりでした。

 日蓮は、これらの世間の状況を見た上で、一切経を拝見して思索をしてみると、「なぜ、彼等の御祈請が叶わないのか。そればかりか、かえって、災難が凶悪さを増長していくのは、何故なのか。」ということに対する理由を、道理と文証の面からも認識することが出来ました。

 その結果、私は、単に経文を学ぶだけではなく、勘文(国主に対する諫暁の書)を一通作成して、その勘文の題名を、『立正安国論』と名付けました。

 文応元年(1260年)七月十六日午前八時頃、宿屋入道を通して、当時の最高権力者であった故最明寺入道(北条時頼)殿に、『立正安国論』の奏状を進上しました。
 これは、ひとえに、国の恩に報いる為であります。

 『立正安国論』の大意は、次の通りです。

 日本国には、天神七代・地神五代・百王(天皇)百代(注、八幡大菩薩は、百代の天皇の守護を誓っている。)が在しています。

 第三十代欽明天皇の御代に、初めて、百済国(朝鮮)から日本国に、仏法が渡来しました。
 そして、欽明天皇の御代から桓武天皇の御代までは、二百六十余年の時間が経過しています。

 その間に、一切経と六宗(倶舎宗・成実宗・律宗・三論宗・法相宗・華厳宗)が、日本国に伝えられました。
 けれども、天台宗・真言宗の二宗は、まだ、伝わっていませんでした。

 桓武天皇の御代に、山階寺(注、奈良興福寺の別称)の行表僧正の御弟子に、最澄と云う小僧がいました。
 最澄は、後に、伝教大師と名乗られた方であります。

 最澄は、以前から日本に渡っていた六宗(倶舎宗・成実宗・律宗・三論宗・法相宗・華厳宗)と禅宗の教えを、学び極めていました。
 それでも、最澄は、それらの教えに、納得することが出来ませんでした。

 ところが、聖武天皇の御代に、鑑真和尚が大唐(中国)から持参された、天台大師の法華玄義・法華文句・摩詞止観等の注釈書を、最澄は、始めて拝見する機会に恵まれました。

 これらの天台大師の注釈書は、日本に渡来されてから四十余年の間、誰からも読まれない状態でした。 
 最澄は、天台大師の注釈書を拝読したことによって、仏法の奥深い意味を、ほぼ覚ることが出来ました。

 延暦四年(785年)に、最澄は、天長地久(天地が変わることなく安穏であること)を祈るために、比叡山を建立しています。

 桓武天皇は、比叡山を崇められて、天子本命の道場(天皇が国家の鎮護を祈願する道場)と、位置づけられました。
 そして、桓武天皇は、六宗(倶舎宗・成実宗・律宗・三論宗・法相宗・華厳宗)への御帰依を捨てて、一向に、円教である法華経を宗旨とする天台宗に帰伏なされました。

 桓武天皇は、延暦十三年(794年)に、長岡京を遷都して、平安京に城を建てられました。

 延暦二十一年(802年)一月十九日、桓武天皇は、高雄寺に於いて、南都七大寺の六宗の碩学である勤操・長耀等の十四人を最澄と召し合わせて、法門の談論により、公場での勝負を御決断なされました。

 六宗の高僧どもは、口を鼻のように閉じてしまい、たった一つの問答にも、返答することが出来ませんでした。

 その際に、華厳宗の五教・法相宗の三時・三論宗の二蔵三時の法門は、すべて破折されてしまいました。
 ただ、自らの宗派が破折されたのみならず、六宗の高僧どもが、皆、謗法の者であったことも、桓武天皇に知られました。

 そのため、延暦二十一年(802年)一月二十九日に、桓武天皇は勅宜を下して、六宗の高僧どもを御詰問なされました。
 結局、六宗の高僧の十四人は、謝罪文を作成して、桓武天皇へ捧げ奉ることになりました。

 桓武天皇以降の代々の天皇が、比叡山に御帰依なさっている様子は、あたかも、親孝行な子供が父母に仕えることにも超えるほどであり、あたかも、人民が王の威力を恐れることにも勝っているほどでした。


 或る御時には、天皇が宣命を捧げられたり、或る御時には、天皇が非道理を押し通してまでも、代々の天皇は比叡山を保護されていました。

 特に、清和天皇は、比叡山の慧亮和尚の御祈祷の威力によって、天皇の位に就かれた経緯がありました。
 そのため、清和天皇の外祖父であった九条右丞相(藤原良房)は、比叡山に、誓状を捧げられています。

 そして、鎌倉幕府を開いた征夷大将軍の源頼朝(注、源頼朝は法華経を信仰していた。)は、清和天皇の末裔(子孫)に当たります。


 従って、鎌倉幕府の政治が、仏法の是非を論ずることなく、比叡山(法華経の信仰)に違背するようなことになれば、恐ろしいまでの天命が下ることでしょう。

 ところが、後鳥羽上皇の御代の建仁年間(1201~1203年)に、法然・大日という二人の増上慢の僧侶がいました。

 悪鬼が彼らの身に入って、国中のあらゆる身分の人々を迷わせました。
 そのため、世の人々は、こぞって念仏者となり、人ごとに禅宗を信じています。

 思いのほかにも、比叡山への御帰依は薄くなり、日本国中の法華・真言の学者たちも、捨て置かれるようになってしまいました。
 故に、比叡山を守護する天照太神・正八幡大菩薩・山王七杜、並びに、日本国を守護する諸天善神は、法華経の法味を食することが出来なくなったために、その威光を失って、国土を捨て去ったのです。

 悪鬼が便りを得て、災難を引き起こしている様子は、「結局、この日本国が、他国によって、破られる先兆である。」と、考える次第です。

 また、その後、文永元年(1264年)七月五日には、大彗星が東の空に現われました。
 大彗星の光は、ほとんど、日本の国土全域に及びました。
 これは、日本国が始まって以来なかったほどの、凶瑞(不吉な前兆)であります。

 しかし、仏教の学者も儒教の学者も、この凶瑞の根源を知る者は、一人もいません。

 私(日蓮大聖人)は、この凶瑞を見るにつけて、いよいよ悲しみと嘆きを増すばかりでした。

 すると、文応元年(1260年)に『立正安国論』の勘文を上奏してから、九箇年を経た文永五年(1268年)一月に、大蒙古国からの国書を見ることになりました。

 (注、『立正安国論』御提出以後の期間を、日蓮大聖人が数え年で勘定なさっているために、“九箇年”となっている。)

 私(日蓮大聖人)は、他国侵逼難の発生を、『立正安国論』に予言しております。
 その予言が、まるで、割符を合わせたかのように、的中したのであります。
 
 釈尊は、付法蔵経等において、「我が滅後一百余年を経てから、阿育大王が出世して、我が舎利(法)を弘めるであろう。」と、予言されています。

 周(中国)の第四代昭王の史官であった蘇由は、「一千年の後、仏教が、この国土に弘まるであろう。」と、記しています。

 聖徳太子は、「我が滅後二百余年を経て、山城の国に、平安城が立つであろう。」と、予言されています。

 天台大師は、「我が滅後二百余年以降に、東国に生まれて、我が正法を弘めるであろう。」と、云われています。

 これらの予言の結果は、皆、記された文の通りに、的中しています。

 また、日蓮も、正嘉元年(1257年)の大地震、正嘉二年(1258年)の大風、正嘉二年(1258年)の大飢饉、正元元年(1259年)の大疫病等を見て、「これらの災難は、他国から、我が国が破られる先兆である。」と、『立正安国論』に予言しております。

 このことを申し上げるのは、自画自賛になるかも知れません。
 けれども、もし、この国土が破壊されたならば、同時に、仏法も破滅してしまうことは疑いありません。
 そのために、あえて、言及する次第です。

 しかるに、当世の高僧たちは、謗法の者と同類の者たちであります。
 また、自宗の根本の法義すら、知らない者たちであります。

 にもかかわらず、必ずや、勅宣(天皇の詔勅)や御教書(公家や将軍が出す公文書)を下されて、当世の高僧たちが、凶悪なる災難の対治を祈祷することになるでしょう。
 そうなれば、仏や諸天善神が怒りを増すために、国土が破壊されることは疑いありません。

 日蓮は、また、この凶悪なる災難を対治する方法を知っています。
 これを知る者は、比叡山を除いて、日本国には、ただ日蓮一人であります。

 譬えてみれば、太陽や月が二つも存在しないことと同様に、聖人(仏)は、肩を並べない(同時に二人も現れない)ものであります。

 もし、このことが妄言であるならば、法華経を守護する十羅刹女から、日蓮は罰を受けることになるでしょう。

 これは、ただ、偏(ひとえ)に、国のため、法のため、人のために、申し上げております。
 決して、我が身のために、申し上げてはおりません。

 かつて、貴殿には、禅門で、対面しています。
 故に、この書面を以て、貴殿に通告させていただきます。

 (注、執権・北条時頼は、禅宗で入道したために、最明寺入道殿と呼ばれていた。そのため、北条一門で、入道した有力者の屋敷を指して、日蓮大聖人が“禅門”と称されたのではないか、と、筆者は推測している。)

 もし、私(日蓮大聖人)の諫言を用いなかったならば、必ずや、後悔することになります。

 恐々謹言

 文永五年〈太歳戊辰〉四月五日   日蓮 花押

 法鑒御房



■あとがき

 『安国論御勘由来』の御説明を申し上げます。

 『安国論御勘由来』の御真蹟は、中山法華経寺に現存しています。 
 また、『安国論御勘由来』の対告衆は、法鑒(ほうかん)房であります。

 一説には、「日蓮大聖人を斬ろうとした平左衛門尉頼綱の父である、平左衛門尉盛時が入道して、“法鑒”と号した。」と、云われています。

 しかし、筆者は、その説に対して、「推論の域を出るものではない。」と、考えています。

 いずれにしても、『安国論御勘由来』の対告衆の法鑒房は、鎌倉幕府の中枢に親近した僧侶であったことは、間違いないでしょう。

 日蓮大聖人が『安国論御勘由来』を御著作された時代背景として、忘れてはならないことがあります。


 それは、文永五年(1268年)一月十六日に、蒙古国の国書が九州の太宰府に到着していることです。

 蒙古国からの国書には、日本国に服属を求めた上で、それが受け入れられない場合には、武力で侵攻する旨の内容が記されていました。

 つまり、「8年前の文応元年(1260年)に、日蓮大聖人が『立正安国論』で御予言なされていた『他国侵逼難』が的中して、日本史上始めての他国からの侵略が現実に迫っていた。」ということです。

 しかも、その相手は、モンゴル・中国・朝鮮のみならず、アジア・ヨーロッパの大半までも制覇して、史上空前の大帝国を築いた“大蒙古国”です。

 日蓮大聖人が『安国論御勘由来』を御著作された、文永五年(1268年)四月五日は、蒙古国からの国書が到着してから、まだ3ヶ月足らずであったこと。


 そのため、鎌倉幕府の周辺は、騒々しいまでの混乱に満ち溢れていたことを、どうか、皆様の念頭に置かれた上で、『安国論御勘由来』を拝読してください。

 ちなみに、日蓮大聖人が『立正安国論』で御予言された二難のうち、もう一つの難である『自界叛逆難』は、それから4年後の文永九年(1272年)に、『二月騒動』(北条時輔の乱)の同士討ちとして、発生しています。    了