日月抄ー読書雑感 -26ページ目

芭蕉の名句「馬の尿」の読み方

一昨年、松尾芭蕉が「奥の細道」で泊まったいう「封人の家」を訪ねたことがある。芭蕉は平泉、岩出山、鳴子を経て仙台領,尿前(しとまえ)の関を越え出羽路の旅を急いだが、「此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。」と書き記し、次の句を残している。

 蚤虱 馬の尿する 枕もと

ここに出てくる「封人の家」とは新庄領堺田村の庄屋有路家の住宅(現山形県最上町堺田)で現在国の重要文化財として保存されている。芭蕉は天気が悪くてここで2,3日滞在したことが分かる。この地は馬産地だったので建物中には立派な馬小屋があり、芭蕉の句の中の「馬の尿する」もこの馬産地が背景にあると言われている。

さて、この「尿」は「しと」と読むのが普通であるが「ばり」と読む説がある。最近、歌人の佐佐木幸綱氏が写真家、稲越功一とのコラボレーションで「芭蕉の言葉」―『おくのほそ道』をたどる を出版した。この本は「300年以上経った現在もなお褪せることのない「おくのほそ道」の旅の魅力と芭蕉像を分かりやすい文章と美しい写真で芭蕉伝えます。旅、俳句、人物、景色と様々な角度から芭蕉、そして「おくのほそ道」を味わうことができる一冊」と帯に書いている。

その中で佐佐木さんはこの「尿」を「ばり」と読む説を支持していることを今日の毎日新聞書評「今週の本棚」で紹介されていた。佐々木さんは芭蕉が言った「事は鄙俗の上に及ぶとも、懐かしくいひとるべし」(去来抄)を掲げて「何が俗かを決めるのは人間の側だと言う意味でしょう」述べている。この地方には「馬のいばり」などの言葉もあり、芭蕉は方言を大切にした句もこの地で詠んでおり、やはり「ばり」の方が適当かもしれない。

今年は松尾芭蕉生誕360周年、写真家の稲越さんも先日「芭蕉の風景の写真展」を開いたばかりである。早速この本を注文したが、これを携え宮城、山形 秋田の芭蕉が歩いた道を辿ってみたい。

佐佐木幸綱/文 , 稲越功一/写真  芭蕉の言葉:〈おくのほそ道〉をたどる 淡交社 2005年3月刊

ポール牧さんが書いた自叙伝

今日の新聞に喜劇役者・ポール牧さんが飛び降り自殺した記事が載っていた。牧さんは、北海道天塩郡出身。上京後の65年、漫才コンビ「ラッキーセブン」を結成し、その後は役者としても活躍した。“指パッチン”の芸で人気を博したとある。

 

実はポール牧さんに「笑わせ者たちの伝説」という著書がある。以前に読んだ記憶があり書架から取り出し読み返したところである。北海道から上京とあるが、秋田でお寺に預けられた後に上京、ヌード劇場の司会コメデアンをしている。この本はその時の様子を描いた牧さんの自叙伝というべき本である。

 

彼はその本の扉に「この書は昭和30年代から昭和40年代にかけてヌード劇場で生きていた、ストリッパーという心優しき天使たちと、コメディアンという笑わせ者たちに、限りない愛と友情を込めて捧げる。」と書いている。この本では、彼は忠太の名前でドサ周りをしながらのストリッパーたちとの生活、観客とのふれあい、師匠、銀平さんからのコメデアンの指導を受けたことなどが書かれている。その中で「歩き3年、転びは5年ズッコケできて丸10年」と客を納得させるためのコメデアンの修行の難しさを語っている。

 

そして、北海道の港町で彼は叫ぶ「この町の一部の人がクラシックや新劇のみを文化と呼ぶとしたら、ヌードショーを見るためにわざわざこの街はずれまで、厳しい労働によってえた金銭を払って訪れる人々が存在することに、「ヌードは文化でない」と誰が言えるであろうか。人々が演じ、人々がそれを見ることによって、ひと時であれ労働の苦しみを忘れ、人間として生きる上での辛さ、悲しさから解き放たれたとしたら、表現手段の差こそあれそれは立派な文化ではないだろうか」

 

このように「人を笑わせる」ことに生きがいを感じ生きてきたあなたが、最後は人を悲しませるなんて、寂しすぎるよ、牧さん。あなたの愛するフランスの劇作家、マルセル・パニヨルのことば「工場から油にまみれて家路に急ぐ人たち、親兄弟、子供に先立たれた人たち、災害で家を失なった人たち・・・・そういう人たちにたとえひと時でも、やすらぎ与えられる者たちのことを喜劇役者といい、そう呼ばれる権利がある。」を口癖のように云っていたではありませんか。

 

わが愛する喜劇役者、ポール牧さん安からかにお眠りください。合掌

 

ポール牧著 笑わせ者たちの伝説  現代書林  1987年2月刊

中国の反日デモ

中国の反日デモについては色々な人が批判あるいは分析しており、それを私なりに整理してみた。これを考えるのに2つの視点があると思う。一つは中国の人々(主に若者)がなぜあのような暴動を起こしたのか。もう一つは中国政府はなぜあの暴動をすぐ止めなかったのかということである。

第1の視点では中国の愛国教育を説く人が多いが、私は王敏(わんみん)聖徳大教授(日中比較研究)の見方が参考になった。その著書、「ほんとうは日本に憧れる中国人」で「反日感情」の深層分析をしている。中国の若者は日本留学熱も盛んで日本に憧れている者が多い反面、なぜ日本が過去の歴史を反省せず、靖国参拝するのかに疑問をもっている。つまり「中国人の心には憧れと憎悪の二重性がある」と分析する。だから日本に不信感があるのは逆に関心があるという証拠にもなるという。

第2の視点では、デモは中国共産党(政府)の「自作自演説」や「当事者能力喪失」論などが多いが、どうもその真意がよくわからない。すぐ抑えると火の粉が自分たち政府にかかってくる。また放置しておくとの天安門事件の二の舞になるという危機意識があるのは事実と思う。それにしても破壊行為を謝罪しない姿勢はおかしい。

気になったことが一つある。今回の事件が「義和団事件」での中国人の破壊活動と類似しているという考え方である。今日の毎日新聞で 金子秀敏論説委員が「反日に義和団のDNA」というコラムで、「中国人は体内にある排外主義のDNAを「義和団コンプレックス」と呼んで、実はとても気にしている。世界から「中国にはまだ義和団のような暴徒がいる」と思われたくないのだ。」と述べている箇所である。

義和団事件では確かに外国人を襲ったが、当時の中国情勢は列国の進出で反植民地化になる危険性があった。歴史学者によっては義和団は単なる暴徒ではなく反帝国主義に向けて闘った者もいると評価している方もいる。もう少し過去の歴史は多面的に見る必要があるのではないか。

結論として、毎日新聞の山田孝夫編集員が云った「戦争を忘れ、矛盾を簡単に乗り越えられると割り切った日本人のごう慢--に対する隣国の批判を謙虚に受け止めよう。だが、この局面で重要なのは、日本大使館襲撃の責任を追及し、扇動では動かない日本社会の成熟と、駆け引きを拒絶する国民の結束を示すことだ」(4月18日発信箱)の考えかたに基本的に賛成である。

ほんとうは日本に憧れる中国人 「反日感情」の深層分析  PHP研究所  2005/01出版

明治から何を学ぶか

司馬遼太郎の奥様、福田みどりさんが書いた「司馬さんは夢の中」に、昭和45年(1970年)司馬さんは産経新聞に「坂の上の雲」、朝日新聞に「花神」、週刊朝日に「世に棲む日々」、週刊新潮に「覇王の家」の連載に追われていたことを書いている。

 

「坂の上の雲」は日露戦争(正岡子規、秋山好古、真之)を、「花神」は大村益次郎を、「世に棲む日々」は吉田松蔭 高杉晋作を、「覇王の家」は徳川家康を描いている。どれも力作である。新聞や雑誌への連載だから、期限に追われながら夫々の資料に当たり,書くのだから普通の人にはできない芸当である。みどりさんも「あのころの司馬さんを思うとあれでよかったのだろうかと、自らを省みて胸が痛みます」と書いている。

 

それにしても「覇王の家」を除いて司馬さんの作品が幕末明治に集中しているのはどうしてだろうか。司馬さんは「明治というのはあらゆる面で不思議で大きくて、いろんな欠点がありますが、偉大でしたね。ただ明治時代という時代区分で話さずに、”明治国家”という地球上の,地図の上にない、1868年から44,5年続いた国家がこの世にあって、人類の中にあって、それは、どういう国でしたかということを今日のひとびとに、できれば他の国のひとびとにも知って欲しいというか、聞いてほしい」と述べている。(明治という国家 NHK出版)上記の小説は歴史上、日の当たらなかった人物を司馬さんが掘り起こして語った彼の明治観ともいえる。

 

最近NHKがスペシャルシリーズ明治(5回シリーズ)を放映中である。「明治の日本はなぜ成功したのか。また、何を課題として積み残したのか。 今、曲がり角に立つ現代の日本に、新たな国づくりの示唆を得るため、明治の人びとの声に耳を傾け、その歩みを見つめなおす」という趣旨で明治にアプローチしている。

 

明治の日本は全て成功とは思わないが、昨今の日本の政治を見るにつけ、明治を振り返り、参考にすることは必要である。司馬さんの「坂の上の雲」の7割くらいは日露戦争の記述で、もし映画化、TV化すると殆ど戦争場面になることを危惧して許可しなかたといわれる。明治の何を学ぶといっても都合のよい点だけを利用する換骨奪胎は戒めなければならない。NHKは「坂の上の雲」の映像化の許可を福田みどりさんからとり、平成19年完成するという。さてどんな作品になるのか?

 

福田みどり著 司馬さんは夢の中 中央公論社 2004年10月刊

西条八十の再評価

西条八十の晩年を知ったのは中央公論の編集者であった宮田鞠栄さんの書いた「追憶の作家たち」の中に、八十との交流について書かれている箇所があったからであった。彼は仏文学者であったが、むしろ「東京音頭」などの民謡、「誰か故郷を思わざる」などの流行歌、「歌を忘れたかなりあ」などの童謡などの作詞者として知られている。しかし、最後は「アルチュール・ランボオ研究」に没頭したという。

宮田さんはその研究について「学問的で精緻な研究は西条八十本然の詩心を注ぎ込んだ労作であった。・・・ところがその研究は大方の仏文学者からは黙殺された。純粋芸術は絶対のもので、東京行進曲や王将の作者をランボオ研究家とは認めにくい日本的アカデミズムの風土で、花形作詞家の余興として顧みられらなかったのである」と述べている。

今回、筒井清忠(元京大教授、現帝京大教授)氏が「西条八十」という本を著した。その書評が「週刊朝日」4月29日号(評者川本三郎氏)載っているが、やはりこのことにふれて、大学教授のくせに流行歌をつくるとは、とアカデミズムの世界から反発され続けたことが書かれている。昭和のはじめ、都市化、工業化、消費社会化とともに大衆の時代がはじまり、八十は自ら大衆に寄り添い、彼らを慰め、励ます歌をつくり、著者の筒井さんはそれを「大衆化されたロマン主義」と読んでいるという。

評者の川本さんは「現在、大学の中に漫画や映画などサブカルチャーを研究する学科は珍しくないが、西条八十は、知識人と大衆、純文学と大衆文化の境がなくなった現代を先取りしたといえる」と八十を再評価しているが、これには納得できる。

先にあげた宮田さんがその本で紹介している八十の詩

吾は一代の詩人
灰となりても、
なお風の中に舞いつつ
卿等(おんみら)のために美しき唄をうたうべし
(美しき灰 「一握の玻璃」より)

西条八十の思いが伝わってくる。

筒井清忠著 西条八十 中公叢書 2005年03月 発行

川筋を訪ねて

川筋を訪ねるのが好きである。最近は老齢でそんなにできないでいるが、10年ほど前,知人と地元を流れる皆瀬川の源流を訪ねて11時間歩き続けたことがある。次第に源流に近づくにつれて道はなくなり、川を胸までつかり、さらに深くなると岩によじ登り蟹のごとく横ばいになって源流まで近づこうとした記憶は鮮明に残っている。しかしそのような山奥にも、途中、炭焼きの廃墟、小さなお堂、動物の骨など人間が残した歴史の跡があった。

 

東北・仙台に住む作家・佐伯一麦の小説に「川筋物語」がある。これは広瀬川を流れる杜の都・仙台に生まれ故郷に戻った佐伯が、みちのくの山や川を歩き、その風土と歴史を成熟した眼と筆致で描いた長篇小説である。この小説を書いた動機は彼はずっと「私小説」を書いてきたが、それを私に中だけではなく、自分の外側、あるいは自然の風景の中に自分をおいてみるために「川」に行き着いたというのである。だから彼が描いた川は単なる風景としての川けではなく、自分の心の中で描いた「内的風景」でもあるのである。

 

つまり、川での事象、人物、歴史との出会いを通して、彼の心象風景を描きだすことになる。例えば広瀬川で、年中行事・灯篭流しの施餓鬼供養を見て、江戸時代の天保の大飢饉の時に流れてきて亡くなった多くの流民に思いを馳せるなど川に対する彼の思いが伝わる作品である。

 

彼はある座談会で「川は、人間臭くて、人間らしいと思うんです。川は、人間の在り方も、自ずから指し示してくれるところがあります。そういう意味では、川を書くということは人間を描くということにもなると思います」と述べている。

 

この言葉は川を巡ってきた私にとっても体験的に分かることである。残念なことに佐伯氏のようにそこから心象的な風景まで描き出す能力がないが、川という流れに浸っているだけでも心の安らぎを覚えるし、自然に対する畏敬の念、そしてそこで住んでいる人間の歴史を感じることは確かである。最近、私にとって気がかりなことは、地元の川のダム建設計画が着工されたことである。竜伝説のある淵、太古のぶな林も埋没の危機にある。今のうちに私なりの「川筋物語」を残す必要があるのではないかと感じるこのごろである。

 

佐伯一麦著  川筋物語  朝日文庫  2005.04刊


竹内浩三を探し求める若者

下の詩は昭和20年、激戦のフィリピンに消えた23歳の一人の若者、竹内浩三が残した詩「骨のうたう」の冒頭の部分である。

/戦死やあわれ
/兵隊の死ぬるや あわれ
/遠い他国で ひょんと死ぬるや
/だまって だれもいないところで
/ひょんと死ぬるや
/ふるさとの風や
/こいびとの眼や
/ひょんと消ゆるや
/国のため
/大君のため
/死んでしまうや


/その心や   

つぶやくような反戦というより厭戦とも取れる詩であるが、戦争に赴く若者の心情が滲み出ている。この無名のまま死んだ詩人に思いを寄せる人も多い。実は竹内浩三について書いたのは、今年の大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した稲泉連さんの「ぼくもいくさに征くのだけれど」はこの詩人、竹内浩三にまつわる人々の人生をその詩にからめて描き出したものであるからである。

稲泉さんは、史上最年少の受賞。1990年に「フィリッピーナを愛した男たち」で同賞を受けたノンフィクション作家・久田恵さんの長男でまだ26歳の青年である。稲泉さんの作品は「新聞書評を読んで竹内に関心を持ち、肉親や彼の詩を伝えてきた人々の声を集めて最後の地・フィリピンにも赴いた。丹念な取材により、「戦争の雰囲気を、かすかに覚えている我々さえ知らない実態を伝えている。現場を訪れ、会うべき人に会うノンフィクションの王道を行く作品」(選考委員の西木正明さん)と最大級の評価を得た。(毎日新聞)

実際、竹内の詩を伝える人々は多い、ホームページ「五月のように」を見ると彼について丹念に情報を収集していることがわかる。それにしてもなぜ稲泉さんは竹内に惹かれたのだろうか。「この手に竹内浩三の生きた時代から伝わってくる震えを、少しでも感じ取ってみたかった」と彼は述べているが、竹内の感性が稲泉さんの琴線に触れたものと思われる。それにしても、現代の若者の中にも過去の戦争を知りたいという者がいることは驚きであった。

五月のように http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/index.html

稲泉連著  ぼくもいくさに征くのだけれど 中央公論社 2004.7刊

故郷の廃家

いつかは自分の家の歴史を書き残したいと思っている。明治時代、大地主であった祖父の時代に、親戚が工場経営に乗り出し倒産、その連帯保証人になった祖父は全財産を投げ出す破目になり、長男は満州へ、長女は修道女になるなど、子どもたちは波乱の人生を送っている。末っ子の私の母が家を継ぐが、依然として旧家のプライドを捨てないで生きてきたその歴史を曝け出す事への不安と、他人へのプライバシーへの配慮、地域の歴史的背景の調査などを考えると、文才のないことも加わってとても書けないのが現実である。

最近仏文学者の饗庭孝男氏が「故郷の廃家」という本を出した。饗庭家は琵琶湖のほとりに住み、700年の歴史をもつ旧家で祖父の書き残した「饗庭家由緒書」を資料をもとに、地域の歴史的風土を背景に一家の歴史を描いたものである。今日の毎日新聞の書評にはこの本について次のように書かれている。

「すべてを投げだして饗庭の実家に隠遁し、大きな借金を残して死んでいった祖父。貧窮にたえて代用教員をしながら師範学校に入り、二十九歳で広島高師に合格した父。彼は祖父の残した借金の返済に追われつつ、篤実な学校教師、最後は名古屋市の図書館長として職を全うするが、退職金をそっくり欺し取られる。この父親の葬儀を描いた三ページ余は、一種鬼気迫るものを感じさせて、同時に見事な追悼文にもなっている。」

饗庭さんは、その序文でも云っているように単なる一家の歴史ばかりでなく「この物語は同時に近江の、とくに湖西にかかわる古代からの歴史を、私の眼でうかび上らせることも目的の一つであった」と述べているように故郷の敦賀や小浜へ抜ける若狭街道などの旧街道沿いに開けた饗庭村の風土を描きながら、祖先の歴史に迫っている。

その壮大で、しかも自分の家の歴史を「故郷の廃家」と言う題名でつけたこの本に惹かれる。なぜならわが家も「故郷の廃家」的存在という点だけは似ているからである。饗庭さんは1930年生まれ、その年齢になるまでまだ余裕があるので、何かを書いて見たいが・・・。

饗庭孝男 著  故郷の廃家  新潮社 2005/02/25刊

幕末の為政者の気概

19世紀パリの新聞に風刺画(リトグラフィー)を載せていたドーミエと言う画家がいる。彼が幕末のころの日本について描いた風刺画がある。「日本人たちによってよみがえったヨーロッパの均衡」という絵である。

 

これは日本刀の刃上をコマが回っている絵である。日本が明治維新の直前、ヨーロッパ列強が日本に開港を迫るためにさまざな行動に出るが、ドーミエはここで、日本刀に象徴される日本人たちのこの列強への抵抗が、かろうじてヨーロッパ列強同士の間で日本の利権ををめぐる争奪戦を不可能にし、列強の均衡を保たせている危うい状況を示し、その均衡は日本のぎりぎりの抵抗によってよみがえったものだということを描いた物といわれる。

 

中国のように半植民地化の危機にあって、日本人がそれを免れたのは列強の均衡(牽制しあい)があったからともとれるが、何よりも日本刀の刃先の危うさのなかでコマをが落ちないように踏ん張った日本人の知恵があったからともとれる。確かに諸外国と不平等条約を結んだか植民地にならずにすみ、その後不平等条約解消に努力しているのである。

 

日露通好条約締結150年を記念する式典(外務省主催)が今日16日、条約が締結された静岡県下田市で行われ、小泉首相や町村外相、ロシア側からはアレクサンドル・ロシュコフ駐日大使らが出席した記事が載っていた。ロシアとの間に初めて結ばれた日露通好条約は1855年2月7日、下田の長楽寺で幕府全権川路聖謨(としあきら)とロシア使節プチャーチン提督との間で調印されたが、川路はプチャーチンと対等に渡り合い、日本にも切れ者の外交官がいると注目されたようである。

 

最近の日本外交は外国の諸々の圧力を受けてその対応に苦しんでいる。まさに日本刀の刃先の上からいつコマが落ちるか、ハラハラしながら見ていなければならない状態である。そこで幕末・明治のころの為政者たちの気概に学べといいたい。

 

喜安朗編 ドーミエ風刺画の世界  岩波文庫  2002年2月刊

もう一つの「坂の上の雲」

正岡子規亡き後、看病した妹、律は33歳で共立女子職業学校に入り、卒業後同学校事務職員を経て教師になっている。そして、叔父加藤拓川の三男を養子にして正岡家を継がせている。正岡忠三郎である。司馬遼太郎はこの忠三郎について小説「ひとびとの跫音(あしおと)」で詳しく書いている。また、この小説には、律、母の八重、忠三郎の実母ひさ、秋山好古の娘健子など子規と関係ある人物が多く登場する。さらに忠三郎の友人、タカジ(西沢隆二、ペンネームぬやまひろし)についても多くの紙面を割いている。

 

実は、昨日紹介した関川夏央の「坂の上の雲を読む」の中に、この「ひとびとの跫音」と「坂の上の雲」の関連については興味ある記述がある。「この小説(ひとびとの跫音)ではそのような無名の群像の動きによってある時代精神を静かにえがきます。小説ともエッセーとも実録ともつかぬ方法は「坂の上の雲」の市井の人版といえます。あるいは「坂の上の雲」は非常時の「ひとびとの跫音」かもしれません。文学の態度と方法において司馬遼太郎と対照的な立場の藤沢周平が「ひとびとの跫音」に感銘を受けたと告白するのも、よくわかる気がします」

 

そして、この『「ひとび々の跫音」の真の主人公は正岡子規である。子規は死んでおり一度も出てこないが、小説全体に子規の気配を感じる。・・・これは「坂の上の雲」で戦争が始まる前に死んでしまった子規への借りを司馬遼太郎は「ひとびとの跫音」で返し、思い残しを晴らし、死者に対し心安んじよ、と語り掛けているように思われます。「ひとびとの跫音は「坂の上の雲」の陰画ではありません。もうひとつの静かな「坂の上の雲」です。』と述べている。

 

関川の記述は興味ある見解である。今、かなり以前に読んだ「ひとびとの跫音」を書架から取り出し読んでいるところである。市井の中で平凡に、しかしユニークに生きた正岡忠三郎とその周囲の人々の動きに、関川の言うように確かに子規の気配を感じるのである。また、司馬遼太郎も実際に彼らとの交流を通して深く入り込んでいるのも特色で、司馬の他の小説には見られない彼の息使いも感じる作品である。

 

司馬遼太郎著 ひとびとの跫音 上、下 中央公論社  1981年刊