信仰のないお坊さん(『恐山 死者のいる場所』南直哉著)
今年4月に出た、禅僧・南直哉さんの新刊
『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)を遅ればせながら読んだ。
普通の家庭に生まれた元サラリーマンで、ご自身の苦悩の正体を
問い詰めて、哲学やキリスト教やいろんなものを遍歴した末に
仏教に賭けた南さんは、”理屈っぽさ”において当代一のお坊さん
だと思うけれども、その南さんが理屈では歯が立たない場所・恐山の院代
になって感じ考えたことが書かれた良書だった。
まっとうなレビューは、アマゾンの仏教書レビュアー・ソコツさんのなどを
ご覧になればいいと思うけれども、
ここでは、個人的に激しく同感したところのメモのみ。
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あるとき、永平寺で同僚だったお坊さんから
ずばりと言い当てられたことがあります。
「直哉さん、君には信仰がないね」
これは私の非常に特徴的な部分で、核心をついた言葉だと
感じ入り、恐れ入ったのを覚えています。
(中略)
誤解してほしくないのですが、私は宗教において
信仰というものが必要ない、とは決して思っていません。
宗教と信仰を分けて考えることはできないでしょう。
ただ、中には私のようなタイプの宗教者もいるのです。
「信仰」を強制するのではなく、言葉でもってその本質に
とことん迫っていこうとするタイプです。
そのようなタイプの宗教者にとって、ときとして信仰が
邪魔になることがあります。
私は、自分の苦悩や問題を、どうにかしてリアルな言葉に
したかった。
(中略)
それもこれも、私が仏教というものをテクニックとして
考えていることに起因するのかもしれません。
仏教の教えというものは、私にしてみれば道具であります。
それが使えるかどうかが大事で、使うまではわからない。そこは賭けです。
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自分の抱える苦しみに、言葉でとことんまで迫っていこうとする・・・
まさにお釈迦さまの態度もそうだったと思うのだが、どうだろうか。
『考える人』(新潮社、2011年、春号)で南さんと対談した
高村薫さんが「お坊さんの書いた本は、信じることが出発点だから、読まない」
と言っていて、そういえば私も読んでないや、と思った。
お坊さんの本で読んでいるのは、南さんの本ぐらい。
たぶん私のも”信仰”ではない。
信じることが前提のお話は、ポジショントークのようで苦手だ。
以下は、3・11後にかかれた
「無常を生きる人々 あとがきに代えて」より。
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(3・11での)突然の膨大な死は、その数だけの悲惨な問いを
生み出した。それは、「どうしてあの人は死に、自分は生きて
いるのか」という問いである。
(中略)
他者がそうであり、自分はそうでないことに根拠がない。
この根源的な欠落の不安を自覚することこそ、無常ということだ。
理由のわからなさに戦慄することが、無常の感覚なのである。
無常が死者を欲望させる。「仕方の無さ」を自分に受け入れさせよう
とすること、それが自己の無常から噴き上がってくる
死者へのどうしようもない想いの正体だろう。
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