やっぱり禅宗がわからない(『禅思想』)
『禅思想 その原型をあらう』(中公新書、柳田聖山著、初版1975年)
という本を読んでみた。
末木先生の本に柳田聖山先生(1922-2006年)が出てきたので
読んでみたのだが、あとがきによると、
でも「わたくしは、いま流行の禅ブームと、いわゆる禅の旗手たちのあとに、
どうしてもついていけないのである」「禅の思考を、出生当初のうぶな肉声
にかえそう」というのが、本書を書いた目的だという。
禅の本は、ちょぼちょぼしか読んでいないけれど、からきしわからない。
この『禅思想』を読んでも、やっぱりわからなかった。
何が一番わからないって、明日から私はどうすればいいかがわからない。
「経典は<一切の衆生は本来ネハンの中にあって、汚れのない
本来の智慧がもとより完備している>といっている」
(P75、神会『神会録』の訳)、
「著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、屙屎送尿 ( あしそうにょう )。
道は、衣服をまとい飯を食い糞小便をたれる、日常茶飯の行為の
うちにあるという意味である」 (P110)
「無心の心は一切の分別の相を離れているのだ」
(P115、黄檗『伝心法要』の訳)
他の人はどうか知らないが、自分を振り返るに、
「汚れのない本来の智慧」なんて、自分のどこに・いつから
格納されているのか皆目見当がつかない。
明朝、衣服をまとい仕事にいって、
いかに人の下世話な興味や物欲を煽って売るか、
ということを考えて、帰って寝る、という
その「日常茶飯」のどこに「道」があるのかも見当がつかない。
そんなことしてたら地獄に堕ちるといわれたほうがいっそ気持ちがいい。
まさか「日常茶飯」は、畑を耕したり胡麻豆腐をつくる日常限定
というわけでもないでしょう?
なんだか腹が立ってきた。座禅を組めばわかるのかしら?

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