ヘレン・ケラーの阿頼耶識
もしかして「私」はホルマリンづけにされた脳で、
いろいろな電極が繋がれて電気ショックが与えらていて、
風景や他人が見えたり音が聞こえているだけではないか?
本当は周りに何も存在しない実験室なのではないか?
といった妄想を抱いたことは誰でもあると思います(ないかな)。
今ではさすがにこういう想像に囚われることはないですが、
でも絶対に外界は存在すると証明できるのかどうか、私の頭ではよくわかりません。
こんなことを思い出したのは、少しだけ「唯識論」を触ったからです。
解説書を読んだだけで『唯識三十頌』をちゃんと読んだわけではないので、
「今の時点での自分の疑問」としてメモしておきます。
たとえば目の前に氷があるとします。
1・本当は外界に氷などない。見えた気がするだけ
2・外界に何かは存在するが、「氷」という実体はない
3・外界に存在してもしなくても、どっちでも同じ
唯識論が言ってるのは、煎じ詰めると1・2・3のどれなんでしょうか?
2なら、そのとおりだと思います。
氷と名付けたものは、じき水になり水蒸気になって消えてしまうし、
人によっては「石」や「何か変なもの」に見えてるかもしれませんから。
でもこれなら「縁起」「空」と言えばいいわけですよね?
もし1だったら、私は乗れないなあ、という印象です。
ですが以下のような表現を読むと、もしや1なの?という気もしてきます。
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この識の生成展開は[実際には実在しないものを、実在すると]
構想するはたらきである。その[構想され現し出されたものは、実には]存在しない。
それゆえに、この一切のものはただ識によって現し出されたものである。
(『唯識三十頌』17 サンスクリット原文和訳 『論書・他』中村元著から引用)
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また、ひたすら唯識の本ばかり書かれている横山紘一氏のサイトには
こう書いてありました。
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唯識無境とは、ただ識のみで境はない、
すなわち「外界には“もの”(=境)はなく、ただ“識”すなわち心だけが存在する」という<唯識>の根本主張を表したものです。
「眼を開いて実際にみる太陽と、眼を閉じて心の中に描き出し再現した太陽との
二つの太陽の存在性の度合いは同じではないか。どちらも心の中の影像ではないか」と<唯識>は訴えてくるのです。
本当に心の中の影像以外に「物」として、あるいは「心」として存在するものは
あるのでしょうか。
「唯識塾」http://www.kouitsu.org/
(このサイトはわかりやすい)
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で、ありもしない氷が見えた気がするのは、
阿頼耶識(アラヤしき)という根本識の中に、ありとあらゆる種子が内蔵されていて、
それが発動するから、みたいな話らしいです。
「阿頼耶識」という言葉の響きは好きなのですが、これがまたよくわからない。
たとえば、ヘレン・ケラーは触覚があったので、
サリバン先生が水を触らせて指で「WATER」と書いたとき、
「物には名前がある」と気づいたと言われます。
ヘレン・ケラーの阿頼耶識の中の種子は、人とは違うのか?
すべてそろっているけど色や音が起動しないだけなのか?
もし生まれつき眼・耳・鼻・舌・身(触覚)のすべての感覚がない子供がいたら、
その子にも阿頼耶識と末那識はあるんですよね?
その子の阿頼耶識が何かの種子を内蔵することは可能なのでしょうか?
唯識論者が言う「識も実体はない」は、つまりどういうこと?
唯識(別名「瑜伽(ヨーガ)行派」)はマイトレーヤが開祖とされ、
4~5世紀にヴァスバンドゥ(世親 5C)が体系化して
玄奘が中国に伝え、日本では興福寺・薬師寺・清水寺などの大きな寺に
受け継がれています。
興福寺で見た国宝の世親・無著像。ペシャワールの人には見えない。
一方で唯識を批判する人もいます。
「仏教である以上、『我』を否定しているように見せているが、
『識』という言葉に置き換えて実体視している」(定方晟著『空と無我』)とか、
もっと単刀直入に
「阿頼耶識は結局、お釈迦さまが否定したアートマン(我)じゃねーか」
と言っているテーラワーダ系の人もいました。
まあいいや。そのうち勉強しよう。
『中部経典』が重すぎるので、持ち歩き用に読んでいた本
(『論書・他』中村元著)で唯識をかすっただけでわかるはずがない。
ところで、『ジョニーは戦場へ行った』(71年)という映画は
背筋が寒くなるので、一度見てみてください。
爆撃で目・鼻・口・耳・両手足を失った戦士の脳内世界の映画です。
唯識とは別に関係ありません。

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