新興企業の社長としてのお釈迦さま(『大乗仏教興起時代3) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

新興企業の社長としてのお釈迦さま(『大乗仏教興起時代3)

あまりに面白いため、連日『大乗仏教興起時代~インドの僧院生活~』
(グレゴリー・ショペン著・春秋社)について書いてしまいます。
いいのかな? 宣伝になるか。でも版元品切れだから意味ないか。


この本でショペン教授は、碑文や僧院からの出土品という考古学的資料と、
教団の規則である文献「根本説一切有部律」を照合しています。

そこに現れるお釈迦さまの姿は、従来の「俗世を捨てた」イメージとは
まったく違っていて、驚きます。
日常の些事に頭を悩ませながら、新興教団を運営する、
ほとんど「新興中小企業の社長」といった風情なのです。


文字の刻まれた日用品

インド北部の僧院遺跡から、文字の刻まれた日用品が大量に出土されている。
これは、僧院の財産に記銘をせよ、という規則に対応している。
「根本説一切有部律」にはこのような記述がある。

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■お釈迦さまの教え
「シーツと寝具を区別し、所属を記すべきである」


昔、一人の在家者が「森の僧院」と「村の僧院」の2つを持っていた。
あるとき「森の僧院」で祭りがあって、僧が「村の僧院」に
シーツや寝具を借りに行ったが、「村の僧院」の僧は貸さなかった。
世尊が「それらを貸さなければならない」と言った。

祭りが終わったとき、「森の僧院」の僧は、シーツや寝具を
返さなかった(どうせ同じ在家者の僧院であるため)。
世尊は「それらは力づくでも取り返さねばならない」と言われた。
でもそれらは、森のと村のとぐじゃぐじゃになって、
どちらがどちらのかわからなくなっていた。

世尊は「『この寝具とシーツは森の僧院に属する』というように記せ。
寝具とシーツをはっきりと区別できるようにして使用すべきである」
と言われた。

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なんなの、これー!?
人類の至宝である釈迦牟尼スーパースターが、
「シーツや寝具を別館から取り戻せ。今後はちゃんと<本館>と書いとけよ」
って、温泉旅館のオヤジさんのような指示を出してるのです。


◆僧院の財産に押した印章


インドの広い地域の僧院遺跡でさまざまな年代の印章(ハンコ)が出土されている。
2~3世紀は様々な図案なのが、5世紀以後は突然「車輪と2頭の鹿」に統一される。それに対応するように、根本説一切有部律には、印章に関して以下のような記述がある。

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■ 男女の性器を印章に刻んだトンデモ僧


あるとき、僧院に泥棒が入り、貴重品保管室と僧個人の独房から品物を盗んだ。
個人の所属物(僧が寄進されたもの?)がグジャグジャになって、
どれが誰の所有物かわからなくなってしまった。
そこで世尊は「以後は印章を付けることを許可する」と言われた。

ところが、それを聞いた六比丘衆は、金・銀・瑠璃・水晶で印章をつくり、
あらゆる飾りでゴージャスに飾った印章付きの指輪をはめ、
バラモンや在家者を見かけると、指輪で飾り立てた手を見せながら
「みなさん、ごきげんよう」と言った。
しかも六比丘衆は、こともあろうに印章に性器まるみえの男女を刻み(!)、
見せびらかした。

それを見たバラモンや在家者は「あんたら、それでも坊さんか?」と呆れ、
僧たちはそれを世尊に報告した。

世尊は、「印章付きの指輪は禁止。印章は真鍮・銅・青銅・象牙・角に
せねばならない。図案は、教団の印章は<車輪と鹿>、
個人の印章は<骸骨か頭蓋骨>にせねばならない」と言った。

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お釈迦さま、ハンコの素材や図案まで管理せねばならなかったのですね・・。
「シーツを返してくれません!」「ハンコに性器を刻んでるヤツがいます!」
などという案件が日々持ち上がるとは、社員(僧)の質としていかがなものか。
豪華な指輪で「みなさん、ごきげんよう」って、どんな俗物僧なのよ。


このような風景は、パーリ律からも伺え、
以前のブログで「お釈迦さまは町工場の社長みたい」と書きましたが、
あながち間違ってなかったようです。
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-10596500065.html

ただショペン教授が書いているように、
「根本説一切有部律」は1~2世紀に書かれたか編集・編纂されたもので、
お釈迦さま時代の教団の姿をどの程度あらわしているかは、わかりません。
500年以上あとの文献ですからね。


でも、もしお釈迦さまが実際にこのような教団経営の苦労をしていたなら。
涅槃に入る前、「アーナンダよ、わたしは疲れた」というセリフに、
「社長、本当にお疲れ様でした!」と言いたくなってきます。

と同時に、お釈迦さまでさえ日常の些事から逃れられなかったのなら、
わたしたち凡夫が些事にまみれて死んでいくのは仕方あるまいという、
救いだか諦めだかの境地に達するのでございます。



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