肌寒い日に、打ち合わせが入ってしまい、出来るだけ着込んだ後、誰でも知っている街へと向かった。
周囲では多くの音が洪水の様に流れていて、大分慣れて来たとはいえ、数曲混雑している所に行くのが、いまだに苦手な私にとって、この時期特有の曲ばかりが流れているのは助かると、ホッと息を吐いた。
 
「♪」
 
一つの曲が、ずっと時が流れても色褪せる事無く親しまれているのは、とても凄い事。
自分が、子供を生み出す様に作っている曲も同じ位愛して貰えたのなら…毎回思いを込めて作ってはいても、不安は常に存在していて…そんな気持ちすら、持ち上げてくれる曲調に惹かれて…つい、曲を小声でハミングしてしまっていた。
 
「♪」
 
ピアノを弾くのは好きで、気付かずに歌っている時はあるけれど、自分の意識は鍵盤から紡がれる音達に向けられている為に、気にはならないけれど…今日は歌声が、ダイレクトに入り込んで来て、少し恥ずかしくなって…更に小さくしようとした時、私のメロディに雪の様に繊細で透き通ったモノが重ねられた。
 
「♪」
「♪」
「?」
 
振り向きつつ、ハミングを止めようとすると、私の横に現れた人は、軽く首を左右に振るう。
 
『歌い続けて』
 
言われなくても、その台詞が分かった私は、初めの音量で歌い続けた。
 
今日は、ミニライブの打ち合わせが入っていると聞いていて、もしかしたら夜まで会えないと思っていた相手が、隣に居る。
それだけで、マフラーを鼻元まで引き上げようと思っていた位、寒さを感じていたのが、消えていた。
 
____不思議。
 
「___♪」
「___♪」
 
一曲が終わる。
その時、丁度駅に到着していた。
 
もしかしたら、他の用事に行く道程で、偶然会ったのかもしれない。
歌い終わって、白い息だけが作り出される唇から、問い掛けの言葉を出そうとした時、整った顔の美しい冬の似合う人は、眉を少し寄せて困った様な表情で私を見つめていた事に気付いた。
 
「美風先輩?」
「君は、歌よりピアノの方が良いね」
「…ですね」
「でも、声色は好きだよ」
「ありがとうございます」
 
ポンッ。
会っただけ。
歌を重ねただけで、周囲が温かに変化していたのに、先輩の言葉で、体内も季節が変わったかの様に上昇していく。
 
出会った時は、氷の王子様。
その言葉が似合う様に、微笑む事はしなかった。
『微笑みは、何の役に立つって言うの?』
言われた時、体の芯に雷が落ちた気がして、答えを考えるよりも前に、私は涙が零れてしまった。
その私に、
『何故、ボクの答えで、君が泣くの?』
質問は重ねられ…私はまた、答えを見付ける事が出来ずに泣くのを止められなかった…。
次第に、居た堪れなくなって、俯くと…それまで一度も、髪の毛一本も触れられた事の無かった先輩に抱き締められていた。
『君が分からない』
常に自分の持っている情報と計算に自信がある先輩が、初めて<何かを含めた>声色を聞かせてくれた瞬間は…自分の心の中に芽生えていた思いに気付かされる効果を持っていた…。
 
それからの先輩は、急激に変化して…。
私の前だけでなく、四ノ宮さんや翔君の前でも、少し表情や声色を変えてくれるようになった。
 
______そして。真実を知る。
 
言われても簡単に飲み込めない。
目の前で、エラーが起きて、修理の為に迎えが来ても、私は夢の中の出来事としか、思えなくて…。
その後。
『迷惑を掛けたね』
何故か、初めて出会った時程の距離で先輩に話し掛けられてしまうと、私は…また…泣くしか出来なかった。
『また、泣く』
くすっ。
小さく先輩の笑う声が聞こえたと思うと、泣いている私の体は、先輩に包まれていた。
ただ…その抱き締める力が、以前とは違って、強くて…呼吸する事も大変な程…。
 
少しでも。
先輩の近くに居たい。
体だけでなく。
心も。
出生の事を、軽く飲み込んでしまった先輩の心は、冷たく強固な状態になっているのかもしれない。
全部を理解出来て、未来の予想も完璧に近い位。
でも、体には…温かなモノが無い。
もし、今自分が
『お前は、機械で出来ている』
それを言われて、飲み込めるかと言われたら…絶対に無理。
どう説明を受けても、パニックだけで済む訳が無い事は、先輩程の分析力が無くても分かる。
それなのに…先輩は、簡単に
『僕は、機械だから』
『心?ある訳無いでしょ?』
口にしてしまう…。
 
私は、強く抱き締められてから、先輩に一つの事を何度も繰り返して言い続けていた。
『先輩は、人です』
『心は、あります』
『誰よりも、人が好きな筈です』
否定されても。
拒絶されても。
繰り返した。
 
だから…今、横で優しく微笑んでくれる先輩の変化と姿を見る事が出来るのは、幸せな事で…つい、同じ様に微笑んでしまう。
 
  
 
「先輩?打ち合わせ…」
「ああ。終わった」
「え?でも…」
「くすくす。そうだね。あのメンバーだから」
「ですね…」
 
離れたくない。
その思いが籠っていたのがばれてしまったのか苦笑した後、先輩は頭をそっと撫でつつ答えてくれた。
 
同期の友人達の様に、テキパキと答える事が出来ない私にとって、先輩の予測機能は、焦らず穏やかな心で居られるモノ。
今回も、先輩達の暴走を表現しようとする前に、答えは差し出された。
これも…最近の変化なのだけれど。
 
ふわりと微笑まれると、どうしたら良いのか分からない。
氷の王子様は、最近では小春日和の王子様と表現される事も多くて、その言葉を見かけたり、聞く度に心にツキンとした痛みを感じてしまっていたけれど、嬉しい。
 
私の持つ感情は、他の誰かへと移行する様な軽いモノではない。
何でも出来る先輩への尊敬な気持ちではなく、一人の人として、惹かれている。
まだ…内緒の気持ちなのだけれど。
いつでも、迷ってしまう私の弱い心は、その思いで強く支えられているから…まだ、内緒にしておかないといけない。
 
これだけの人が、私を選んでくれるとは思えなくて。
少しは、変化があっても、まだ…時々
『ボクは機械』
その言葉を言ってしまう先輩に、恋心を押し付けるのは、タブーな気がしていた。
 
『今は。
傍に…居れるだけで良い』
心で思いながら、今日あったドタバタを先輩から聞いていると、周囲が慌ただしく動き始めた事に気付いた。
 
人が多く乗り降りする駅で、立ち止って話していた私達が、その人混みに巻き込まれそうになった時、強い力で私の体は近くの壁際に連れ去られていた。
 
「危ない」
「…すみません」
「ボクがいけなかったね。この混みは予想出来た筈」
「え?」
「…駄目。君と居るとおかしくなる」
「先輩?」
 
キュッ。
先輩が私を抱き締める。
いきなりの事で、大きく変化する視界の端で、寄せられた壁に貼られている大きなツリーの写真が見えて…その後は先輩の胸に押し付けられて真っ暗に…。
 
「ねぇ。教えてよ」
「?」
「打ち合わせが終わったら、戻れば良かった」
「…はい」
「時間の無駄でしかない。それが分かっていたのに、気付いたら君に逢いたくなっていた」
「私…に…」
「そう。会いたい。レッスンとかでまた会えるって分かっていても、会いたかった。抱き締めたかった」
「…私も…先輩の温もりが欲しかったです」
「温もり」
「はい」
 
ポロリと零れてしまった。
先輩は、体温が無い。
肌は、一級品の滑らかさを持ってはいても、冷たいまま。
今抱き締められていても、先輩の感情は、心拍数で知る事は出来ない。
それでも、私は先輩から温もりを感じていた。
もしかしたら、私が抱いている感情が生み出しているのかもしれないけれど…。
 
「そうだね。君とボクの間だけで発生するのかもしれない。科学的ではないけどね」
「…信じて…」
「うん。信じる」
「ありがとうございます」
「それは、こっちの台詞」
「?」
「気にしないで。僕も自分が大事だからね。ショートしたり、故障が発生したら、数時間でも君に会えなくなる」
「…っ」
 
『会えない』
その台詞を聞いた私の体は、ビクリと抱き締められている腕の中で弾んでしまうけれど、先輩の腕の力が強まって安心を与えてくれた。
 
「だから、少しずつ。分析出来ないモノも、飲み込める様にしないと」
「…何処にも行かないで下さいね?」
「うん。約束する。まだ教えてない事も多いから」
「…それだけですか?」
「違う。でも、待って。まだそれに命を吹き込む事は、僕には出来ない」
「?」
「待てる?」
「…えっと…はい」
「ありがとう」
 
腕の中で、電車の発車時刻が近くなっていた為に焦って移動していた人達の姿が、消えた事には気付いてはいたけれど、先輩の温もりが愛しくて。
あと少し。
もう少し。
願いを込めて、体から力を抜いて、全部を先輩に預ける。
 
思いが伝わったのなら…。
先輩の心の美しさを、本人に見せる事が出来たのなら…。
 
初めて知った恋心は、切ない事も多かったけれど、抱き締めてくれる腕の温もりは、もう忘れる事が出来ない位、私の中に融け込んでいた。
まだ、見えない未来。
もしかしたら、先輩にも見えていないのかもしれない。
その先で、もっと先輩との距離が無くなっていたら…私は、誰よりも幸せなのかもしれない……。
 
____先輩。大好きです。
声。心。温もり。全部大好きです…。
 
腕の中。
先輩にと、作っていた曲の新しいアレンジが、聞こえていた…。