この活動が始まったのは、2018年2月。

地元の繋がりで、日本大使館を紹介されたのがきっかけでした。

現在、日本のODA(政府開発援助)として、地元の日本大使館や総領事館が直接窓口になり、支援を行う取り組みがあります。

外務省が行う草の根・人間の安全保障無償資金協力を通して、2018年12月までに3棟の小学校を建設することができました。

活動は、2007年より地元支援活動を行う団体NGO HEED Nepal を中心として、NHASは、日本との橋渡しと地元での施工管理を担当しました。

資材運搬の手配や地元の有力者との交渉、申請に必要な書類作成など、様々な面でサポートを行いました。


 山岳地域への支援は、情報収集や地元住民へ連絡を取るのも一苦労。メールを日本からカトマンズの事務所に送り、現地へ繋がる電話がない場合は、そこから徒歩で要件を伝えに行かなければなりませんでした。

書類を一つ完成させるだけでも、手間と時間がかかるため、地元スタッフの協力必要不可欠でした。そうした地元スタッフの活躍のおかげでこの活動は成り立っています。そして、地元スタッフにとってもこうしたやり取りは、貴重な経験です。今後のビジネスや他の支援活動におけるリーダーの育成にも繋がるノウハウを得ることができました。


 支援活動には、大勢の村人たちが動いてくれましたが、彼らはボランティアではありません。働いた人には必ず賃金を支払います。活動のために働き、自分たちの街を自分たちの手で作ることに、みんな熱心に取り組みました。

ネパールには、まだカーストの歴史が名残を残しており、カーストの低い人々は、食べることで精一杯。政治や街づくりは人任せで、日々労働に明け暮れているのが普通でした。しかし、この活動をきっかけに、地元の自治体との交渉や根回しなど、これまでにはない経験を積むことができました。

今では、彼らの目には「自分たちでできる!」という自信がみなぎっています。


建築資材の運搬チーム 車が入ってこれない道は、資材をロバと人力で運びます。





 この活動が始まったのは、2018年2月。

地元の繋がりで、日本大使館を紹介されたのがきっかけでした。

現在、日本のODA(政府開発援助)として、地元の日本大使館や総領事館が直接窓口になり、支援を行う取り組みがあります。

外務省が行う草の根・人間の安全保障無償資金協力を通して、2018年12月までに3棟の小学校を建設することができました。

活動は、2007年より地元支援活動を行う団体NGO HEED Nepal を中心として、NHASは、日本との橋渡しと地元での施工管理を担当しました。

資材運搬の手配や地元の有力者との交渉、申請に必要な書類作成など、様々な面でサポートを行いました。


 山岳地域への支援は、情報収集や地元住民へ連絡を取るのも一苦労。メールを日本からカトマンズの事務所に送り、現地へ繋がる電話がない場合は、そこから徒歩で要件を伝えに行かなければなりませんでした。

書類を一つ完成させるだけでも、手間と時間がかかるため、地元スタッフの協力必要不可欠でした。そうした地元スタッフの活躍のおかげでこの活動は成り立っています。そして、地元スタッフにとってもこうしたやり取りは、貴重な経験です。今後のビジネスや他の支援活動におけるリーダーの育成にも繋がるノウハウを得ることができました。


 支援活動には、大勢の村人たちが動いてくれましたが、彼らはボランティアではありません。働いた人には必ず賃金を支払います。活動のために働き、自分たちの街を自分たちの手で作ることに、みんな熱心に取り組みました。

ネパールには、まだカーストの歴史が名残を残しており、カーストの低い人々は、食べることで精一杯。政治や街づくりは人任せで、日々労働に明け暮れているのが普通でした。しかし、この活動をきっかけに、地元の自治体との交渉や根回しなど、これまでにはない経験を積むことができました。

今では、彼らの目には「自分たちでできる!」という自信がみなぎっています。


建築資材の運搬チーム 車が入ってこれない道は、資材をロバと人力で運びます。





 地震から1ヶ月たった頃。村の共同水道が枯れてしまったといいます。地割れによってこれまでの水脈から水が漏れ出してしまったようでした。水道が壊れてしまっては、隣村まで水汲みに行かなければいけません。水がなくては生活がままなりません。そんな不便な生活を一刻も早く修繕しなければなりませんでした。

 NHASは、地元民が主体となって活動しています。資材の購入から運搬、そして施工方法の決定、施工までを現地スタッフが中心となって運営をします。家の仕事が終わった後、村の広場に集まり皆で相談して決めます。地元の活性には地元民の活躍が欠かせません。NHASは、こうした活動を支援することで復興を目指しています。

 こうした活動の積み重ねが、地元に活力を与え今後の復興にも技術や知識が活かされていくと信じています。

写真:村で開かれる集会の様子 



水道を作る際には、薪流会、大井際断を中心に、臨済宗妙心寺より協賛を頂きました。

そのほかにも、お米は警察の団体や仏教会、浜北商工会の女性部からも寄付金をいただきました。今回は、約三週間の滞在で水道工事を終え、日本へ帰国しました。


 地震から1ヶ月たった頃。村の共同水道が枯れてしまったといいます。地割れによってこれまでの水脈から水が漏れ出してしまったようでした。水道が壊れてしまっては、隣村まで水汲みに行かなければいけません。水がなくては生活がままなりません。そんな不便な生活を一刻も早く修繕しなければなりませんでした。

 NHASは、地元民が主体となって活動しています。資材の購入から運搬、そして施工方法の決定、施工までを現地スタッフが中心となって運営をします。家の仕事が終わった後、村の広場に集まり皆で相談して決めます。地元の活性には地元民の活躍が欠かせません。NHASは、こうした活動を支援することで復興を目指しています。

 こうした活動の積み重ねが、地元に活力を与え今後の復興にも技術や知識が活かされていくと信じています。

写真:村で開かれる集会の様子 



水道を作る際には、薪流会、大井際断を中心に、臨済宗妙心寺より協賛を頂きました。

そのほかにも、お米は警察の団体や仏教会、浜北商工会の女性部からも寄付金をいただきました。今回は、約三週間の滞在で水道工事を終え、日本へ帰国しました。


 まずは、命を繋ぐための支援が必要でした。

しかし、物資はかさばりネパールまで運ぶだけで大変な費用がかかります。毛布や布団などの支援を申し出てくれた団体もありましたが、輸送費が高額になってしまいます。毛布などかさばるものを送るだけで6,000円ほどかかりますが、現地で購入すれば1,000円程。事情を説明して、現金で支援していただきました。

 まずは、スポーツ飲料やサプリメント、レインコートなど、かさばらなくて日本で買った方が品質が良いものを購入しました。現地ではお米、防水のマットレス、薬も現地の言葉で表記のあるものを調達して、村へ運ぶことにしました。そして、地元の国会議員だった城内実氏の厚意によって、日本政府が届ける物資の中に100kg分を入れてもらい運びました。

 ビルさんが日本に滞在していた三週間の間に、村には政府のヘリが米などの食料を持って支援に来ましたが、山岳地域のチャリス村には着陸することができませんでした。仕方なく数十メートル上空から物資を落としていったのですが、勢いよく落下した衝撃で包みは破れ、中に入っていたお米などは地面に飛び散ってしまいました。結局、それらは食べることができず、食糧不足は深刻でした。土砂崩れで道が使えず、ヘリコプターで向かいました。

 村に着くと、地震発生から1ヶ月以上たって、これまで使っていた水脈が地震で分断されたようで、水量が徐々に減り、遂には枯れてしまいました。水道が使えなくなってしまい、隣村まで水汲みに行かなければならない状況でした。刻々と変わる状況になんとか支援をしたいと考えますが、優先順位をつけひとつひとつ進めて行くことにしました。

写真:食料をわけう村人たち


 2015年5月15日ネパールの内務省報道官によると、地震による死者8,460人・負傷者2万人以上になったことが発表されました。

地震は収まって安堵しても、元の生活を取り戻すのが大変でした。

怪我をして一命はとりとめたものの、障害が残ってしまったり、仕事を失ったりとこれまでの生活に戻れない人がたくさんいました。

そして、命はあるものの家や家族など身寄りを無くしてしまった人も多く、自殺者の増加など二次被害の拡大も心配されていました。

写真:カトマンズ市内の避難所となった広場


 ビルさんも、怪我をしたおばあさんを病院へ運んだり、各村との連絡役などに忙しく、まだまだ混乱の続く状況ではありましたが、家族が待つ日本へ帰国することにしました。

地震発生から2週間が経つ頃でした。


写真:地震直後のチャリス村の状況_1


 村の状況は、酷いものでした。ほとんどの家が倒壊し、応急処置としてあり合わせのブルーシートなどで屋根を覆っていました。

地震発生した5月から3ヶ月後には、雨季がやって来ます。それまでに、雨風の凌げる家が必要です。そのような支援ができるか日本に帰って考える必要がありました。

ここから、長い長い支援の始まりとなりました。

写真:地震直後のチャリス村の状況_2

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 ようやく電話が繋がって村の様子がわかってきましたが、依然として厳しい状況が続いていました。地震から5日が経っても政府や諸外国からの支援は届いていませんでした。

聞けば、建物のほとんどが壊れてしまい、多くの村人たちが家の中に入れずに野外に寝泊りをしている状態。

雨風を凌げるブルーシートや毛布などもありません。家は倒壊し、食料庫の中には食べ物があると分かっていても、余震が続く中、危険で人が入れません。

ネパールに地震が発生したのは、約80年ぶりのこと。

村人全員が初めて経験する地震。村の長老でさえも予備知識を持ち合わせておらず、余震が続き、恐怖に怯え、ただ地震が治まるのを待つだけでした。

写真:チャリス村の避難生活


 一方、カトマンズでは弟の奥さんが亡くなり、葬儀が執り行われました。そこに集まったカトマンズ出身者の知人に、ビルさんが村の現状を伝えました。

このままでは食料もなく孤立してしまうチャリス村のために、持てるだけの食料を持って行こうと声を掛けました。

しかし、まだ余震が続く中、いつ崩れるかわからない山間を歩くのは危険です。なかなか、首を縦にふる人はいませんでした。

それでも行かなければと訴え続け、一番最初に手をあげてくれたのは、いとこの息子でした。

それを見て次々と、名乗りを上げる人が増え、最終的に19人がチャリス村へ行くことになりました。


 衛星電話で村周辺の状況を聞くと、崖崩れが起き、人が生き埋めになっている場所があったり、道が崩れてしまっていると言います。車はもちろん、ロバや馬も使えない状況。

重い荷物を運ぶことは危険です。村では家屋が倒壊し、食料や水は瓦礫の下敷きになってしまっているので、まずはそれを取り出す人手が必要でした。

まずは、移動の際に掛かる3日分の食料とインスタントラーメンなど重量の軽い食料を背負って、出発しました。

余震が続く中、落石や崖崩れの危険を感じながら、山道を行くのはかなり勇気のいることでした。慣れた人でも二日半かかる山道。上から時々石が落ちてくることもありました。

当時のことを思い出すと今も緊張するとビルさんは言います。もし、道中の事故で亡くなる方がいたら声をかけたビルさんの責任になってしまうと、気が気ではなかったそうです。


 出発して3日後、19人一人も欠けることなくチャリス村へ到着。

その時は、村中の人が涙を流して迎えてくれました。それぞれの家族の無事も確認し、安堵したそうです。


それから、手分けをして瓦礫の下敷きになった食料を取り出す作業をはじめました。

地震発生から一週間余り。

5日を過ぎた頃から、山間地区にも政府のヘリコプターが支援に来ていたのですが、チャリス村に着陸することができず、空からお米などの食料を落としていきました。

しかし、落下の衝撃でお米は飛び散ってしまい、食べることが出来ません。

この救援隊のおかげで、ようやくまともな食事が食べられるようになりました。

写真:カトマンズからチャリス村へ支援に向かった仲間

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 ようやく電話が繋がって村の様子がわかってきましたが、依然として厳しい状況が続いていました。地震から5日が経っても政府や諸外国からの支援は届いていませんでした。

聞けば、建物のほとんどが壊れてしまい、多くの村人たちが家の中に入れずに野外に寝泊りをしている状態。

雨風を凌げるブルーシートや毛布などもありません。家は倒壊し、食料庫の中には食べ物があると分かっていても、余震が続く中、危険で人が入れません。

ネパールに地震が発生したのは、約80年ぶりのこと。

村人全員が初めて経験する地震。村の長老でさえも予備知識を持ち合わせておらず、余震が続き、恐怖に怯え、ただ地震が治まるのを待つだけでした。

写真:チャリス村の避難生活


 一方、カトマンズでは弟の奥さんが亡くなり、葬儀が執り行われました。そこに集まったカトマンズ出身者の知人に、ビルさんが村の現状を伝えました。

このままでは食料もなく孤立してしまうチャリス村のために、持てるだけの食料を持って行こうと声を掛けました。

しかし、まだ余震が続く中、いつ崩れるかわからない山間を歩くのは危険です。なかなか、首を縦にふる人はいませんでした。

それでも行かなければと訴え続け、一番最初に手をあげてくれたのは、いとこの息子でした。

それを見て次々と、名乗りを上げる人が増え、最終的に19人がチャリス村へ行くことになりました。


 衛星電話で村周辺の状況を聞くと、崖崩れが起き、人が生き埋めになっている場所があったり、道が崩れてしまっていると言います。車はもちろん、ロバや馬も使えない状況。

重い荷物を運ぶことは危険です。村では家屋が倒壊し、食料や水は瓦礫の下敷きになってしまっているので、まずはそれを取り出す人手が必要でした。

まずは、移動の際に掛かる3日分の食料とインスタントラーメンなど重量の軽い食料を背負って、出発しました。

余震が続く中、落石や崖崩れの危険を感じながら、山道を行くのはかなり勇気のいることでした。慣れた人でも二日半かかる山道。上から時々石が落ちてくることもありました。

当時のことを思い出すと今も緊張するとビルさんは言います。もし、道中の事故で亡くなる方がいたら声をかけたビルさんの責任になってしまうと、気が気ではなかったそうです。


 出発して3日後、19人一人も欠けることなくチャリス村へ到着。

その時は、村中の人が涙を流して迎えてくれました。それぞれの家族の無事も確認し、安堵したそうです。


それから、手分けをして瓦礫の下敷きになった食料を取り出す作業をはじめました。

地震発生から一週間余り。

5日を過ぎた頃から、山間地区にも政府のヘリコプターが支援に来ていたのですが、チャリス村に着陸することができず、空からお米などの食料を落としていきました。

しかし、落下の衝撃でお米は飛び散ってしまい、食べることが出来ません。

この救援隊のおかげで、ようやくまともな食事が食べられるようになりました。

写真:カトマンズからチャリス村へ支援に向かった仲間

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 チャリス村へ到着すると、地震当日に怪我を負ったおばあちゃんがまだ病院に行けずに苦しんでいました。

早速、衛星電話でヘリを要請しましたが、チャリス村にはヘリコプターが着陸できず、歩いて2時間程のシェルトゥン村へおばあちゃんを連れて行きました。

ビルさんが到着するまで一週間。ヘリコプターで病院へ行くまでに5日間程かかりようやく治療を受けることができました。

命に別状は無かったとはいえ、頭に裂傷を負い、腰や足など全身を打撲していたので、ずっと痛んでいたはずです。病院で治療を受けられて、ホッとした表情だったといいます。


元々、チャリス村は山岳地帯で、病気やけが人を病院に連れて行くことが困難な地域でした。

例えば、家族が病気になってしまって病院へ行こうとすれば、ヘリコプターで行くしか方法がなく、それにはたくさんの費用がかかります。

その場合、家畜や家を売却して資金を調達することもあり、一家離散で生活がままならない世帯に追い込まれてしまう家族もあるといいます。

この地での暮らす人達にとって、病院へ行くことが叶わず、些細な怪我や病気が命とりになることも珍しくないそうです。


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 ようやく電話が繋がって、山岳地帯の被害状況が分かってきました。

 チャリス村周辺にあるゴルガー郡、ダーデン郡、ヌワコット郡、ラスワ郡、シンドゥパルチョク郡では、壊滅的な被害があったことが分かりました。

チャリス村では、死者は出なかったものの、一人けが人がいるとのこと。


 村には100軒ほどの家があり、5人家族が多いそうなので、人口はおよそ500人程。

学校は建物が崩れてしまい、村の共同水道も壊れて水が出なくなっていました。

そして、村人が住む家も倒壊したり、傾いてしまったりと、今まで通り使えない状況でした。

 当日は、土曜日で学校がお休みだったこと。そして、幸運にも村の半数近くの人が村近くの渓谷にある温泉(タトパニ)で養生していて多くの人が難を逃れることができたのでした。


 不思議なことにこの温泉旅行は、珍しくビルさんの兄が呼びかけて行った慰安旅行。

普段ならば、土曜日は子供は家にいることが多いので、もし温泉へ行っていなかったら多くの被害が出たかもしれません。

そういった偶然が重なって、チャリス村は、最小限の被害で済んだのですが、地震の後は崩れた家の中には入れず、外にブルーシートを貼って野外で寝起きしている状態が続いています。

そして、地震で崩れた貯蔵庫に入れず、食べ物が手に入らない厳しい状況でした。


 しかし、地震から5日も経つのに政府からの支援が全く届いていない状況だと聞き、カトマンズにいるチャリス村出身者に声を掛け、持てる限りの食料を持って村へ行くことにしました。まだ、余震が続く中その決断はとても勇気がいるものだったそう。

 荷物を持って歩いて向かうと慣れた人でも2日半かかる行程。まだ、余震が続く中崩れた斜面の下を歩くのはとても怖かったといいます。