TOKYO OYSTER BAR at GOTANDA

TOKYO OYSTER BAR at GOTANDA

1999年 東京オイスターバー本店 五反田にオープン※日本初のオイスターバー
2004年 2号店 東京オイスターバーリンクス店 五反田にオープン
2007年 3号店 東京オイスターバー恵比寿店
2013年 4号店 東京オイスターバー&カフェ白金店

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自分の小学校で仲良くしていた女の子の弟さんです。久々にひょんな事でツイッターで繋がったら桜子の弟さんで良く家に遊びに行ってたのですが当時まだオムツで、、、自分が中学を地元に行かなかった為疎遠になっていたのですが今や世界的有名なピアニストになっておられました、オムツ。

1976年東京都世田谷区に生まれる。6歳よりピアノを始める。
1991年、1992年、南仏のニース国際音楽アカデミーに参加。同年、パリでロシアのピアニスト、ヴァディム・サハロフ氏のレッスンを受ける機会に恵まれる。
1996年渡仏。サン・ノン・ラ・ブルテッシュ国際ピアノコンクール(フランス)第2位入賞、同時にロータリー副賞受賞。後サハロフ氏の内弟子、アシスタントとなる。同年、シンフォニックダルジャンフェスティバル(フランス)に参加。ミンスク交響楽団と共演。
1997年世界的なヴァイオリニスト、ギドン・クレーメル主催のロッケンハウスフェスティバル(オーストリア)に参加。
1998年フランス、ギタリーでソロデビュー。現在までに数回のソロリサイタルを行い成功をおさめる。同年、横浜、広島等5ヶ所でサハロフ氏とのジョイントコンサートを行い好評を博す。
2000年狛江エコルマホールでソロデビュー。
2000年、2001年、リスト国際ピアノコンクール(イタリア)、仙台国際ピアノコンクール。セミファイナリスト。
88年ビクター主催第4回リチャードクレーダーマンピアノコンクール小学生の部1000人の受験者の中、東京B地区当時大好きだった秋のささやきで優勝、全国大会第2位入賞。当時はポピュラー音楽の作曲家になる事が夢であった。

16歳より10年間の在仏にて修行をし2003年に帰国。
子供のころ、シベリアで祖父が戦死したことを知り、16歳時の師フランス人教授からロシア人ピアニスト ヴァディム・サハロフ氏へと弟子入りを薦められ決断する。その後猛特訓の修行の道が始まり、サハロフ氏の唯一の弟子及びアシスタントとして務める。

1996年サンノンラブルテッシュ国際ピアノコンクール第2位(フランス)
2000年リスト国際ピアノコンクール セミファイナリスト(イタリア)
2001年第1回仙台国際音楽コンクール セミファイナリスト

1996年 サンフォニックダルジャン音楽祭(フランス)にて、ミンスクシンフォニックオーケストラとバッハの「ピアノ協奏曲」共演

1997年ギドンクレーメルのロッケンハウス音楽祭にてリスト[ラプソディー第12番] 超絶技巧曲[鬼火]を演奏
チェリスト、ヨーヨー・マより「リスト弾き」と絶賛される

1998年 フランスsud ouestにてソロリサイタルデビュー
2004年 愛知地球博ポーランド館にてリサイタル   「オールショパンプログラム」演奏

西日本中心にリサイタル・ジョイントコンサート開催の傍ら、生徒の指導にも力を傾け、多々のコンクールに受賞歴者を送り出している。

version francaise
il a commence le piano a son age 6ans
il a participe des cours d ete a Nice (France) quand il avait 14 ans, et 15 ans.avec un grand professeur Bruno Rigutto.
il a vecu en france entre 1996-2003 pour apprendre le technique russe de piano avec M.SAKHAROV Vadim qui etait un grand ami de M.Gilels Emile, puis il est devenu son assistant pendant 13ans.
il a echoue 2 fois d entrer au conservatoire national de musique de Paris(son reve n a pas realise)

1996 2eme prix au concours international de Saint Nom la Breteche,puis le prix rotaly.
1998 participa au festival de symphonique d argent(Sud ouest). il a joue un concerto de Bach avec l orchestre de belouroussie.
et aussi au festival de Laukenhaus ou il a interpreter 12 eme rapsodie et feux follet de Liszt devant un grand violoniste M.KREMER Gidon.

2000-2001 2 demi finalistes au concours international de Liszt(Palma)et au concours international de Sendai(Japon)
il a interprete un oeuvre de Liszt devant M. Yo-Yo-Ma qui lui a annonce qu il etait specialiste de Liszt.

https://www.youtube.com/watch?v=MyUhRQH2nCs

https://www.youtube.com/watch?v=8hsDyBvZwrg

https://www.youtube.com/watch?v=y_C8OGmUJtk

https://www.youtube.com/watch?v=Jtyd1deg5mY




http://www.oshikawatakeshi.com/?page_id=155#

YouTubeでもおおく活動が掲載されているので是非観て下さい。

1987年 専修大学入学
   
物理学者の故・唐木幸比古教授に師事する。唐木教授の「人・物・金のどれに近づきすぎてもいけない。その正三角形の真ん中に立つような生き方をしなさい」という教えに感銘を受ける。
時代はバブルの絶頂期だったため、学生も大人たちも、浮かれまくっていた。「こんな時代が長く続くわけがないのに、みんなアホや……」と思い、授業よりもアルバイトに精を出すようになる。
様々なアルバイトを経験したが、どんな仕事も面白かった。スーパーで売り子のアルバイトをやったときには、某有名ハム会社のウィンナーを、連日二時間足らずで売り尽くしてしまう。ハム会社の担当社員の間で噂になり、とうとう人事部長が「大学中退でいいからウチに来てくれ!」とスカウトに来るが、丁重にお断りする。「自分だけの仕事を探したい」という信念があったからだ。
その後、警備業のアルバイトに出会い、運命を感じる。「生命・身体・財産」を守るという警備業の基本理念が、唐木教授の言う「正三角形の真ん中に立つ」に重なることに気づいたのだ。自らの進むべき道を見いだし、大学を中退する。

1992年 トキワ警備を創業
23歳のとき、神奈川県川崎市で、個人事業主としてトキワ警備を創業。社員三名、小さなアパートの一室からの出発であった。
当時の神奈川県警察本部の防犯課長に熱意を認められ、公安委員会から認定証を交付される。個人事業主が認定証を交付されるのは過去に例がないと聞き、防犯課長の期待に応えるべく、業務に邁進する。
従業員をはじめ、土建業に携わる人たちは、「食」「眠」「性」の欲求に忠実な生き方をしていた。個性豊かでトラブルも多かったが、それこそが人間本来の姿であると感じる。このときの人間模様が、のちの仕事の礎となる。
交通誘導警備だけでなくSP業務も行うようになり、また、万引き防止協会の立ち上げにも携わるなど、精力的に働く。会社は、従業員150人を抱えるまでに成長。
1996年 説得による「精神障害者移送サービス」を創始
当時、精神障害者の移送といえば、患者を布団などでくるみ簀巻き状態で連れて行くという強制拘束が、当たり前のように行われていた。そんな風潮の中、“説得をして、医療につなげる”移送を試み、はじめは医療関係者や専門家から「無理だ」「無謀だ」と批判も受けた。
実際、移送の現場は壮絶だった。ゴミだけでなく排泄物までもが堆積する部屋。大声で叫び、凶器を振り回す患者。しかしそんな彼らにも、ふとしたときに垣間見える本当の感情があった。それは病気の苦しみであり、理解しあえない家族への悲しみや怒りであった。
1000人を越える患者を説得して医療につなげ、経験を積むほど、感性は研ぎ澄まされていった。
しだいに、入院のみならず、患者や家族の将来を見据えたプランを提供するなど、業務の幅も広がる。
   
患者の部屋に座って、説得をする押川    自宅から逃げ出した患者を説得する押川

2001年 「子供部屋に入れない親たち」を上梓
2000年に入ると、一月には「新潟女児監禁事件」が発覚、続いて五月には「佐賀バスジャック事件」が起きる。医療につながらない患者と家族の問題がクローズアップされ、「精神障害者移送サービス」もにわかに注目を浴び、各方面から取材依頼が殺到する。
2001年には「子供部屋に入れない親たち-精神障害者移送の現場から-」を上梓。過去に携わってきた移送の中には、依頼者である家族の見栄に振り回されたり、嘘をつかれたりするケースも多々あった。そういった経験もふまえ、家族のあり方に疑問を投げかけた本書は、大きな反響を呼ぶ。
その後も、新潮45に『東大・慶大生の闇』や『引きこもりを装った強姦魔』を発表。行政や医療からも見放された家族の問題に踏み込む姿は、「説得のプロ」として一躍脚光を集め、次々にドキュメンタリー番組が放送される。
2002年に社名をトキワ精神保健事務所に変更。代表の座をゆずり、「押川剛」個人としての生き方を貫こうと決める。

   

2002年 北九州市内に若者の自立・更正支援施設「本気塾」を設立
数多くの移送に携わるうちに、医療につなげることはできたものの、家族との複雑な関係により退院後の行き先がない若者の、自立の手助けができないかと考えるようになる。
そこで、故郷北九州市に、自立・更生支援施設「本気塾」を設立する。
東京と北九州市を往復しながら、精神疾患だけでなく、薬物やギャンブル・ゲーム依存症の若者、詐欺や窃盗・傷害など犯罪を繰り返す若者と日常を共にし、自立へと導く。
高校や専門学校通学など教育支援も積極的に行い、自衛隊合格者や調理師免許取得者、看護学校入学、通信制高校卒業などの実績を残した塾生もいる。
道をあやまった若者が、本気でやり直そうとする姿、死に物狂いで努力する姿に感動し、なによりのモチベーションとなる。
   

2007年以降 メディア(テレビ)での活躍の場が広がる
2007年には、日本テレビ『NEWS ZERO』にて、ジャーナリストとして〝ハーレム男〟のその後を追跡した特集が放送される。
また、「本気塾」での若者の更生の実態に迫るドキュメンタリーも、多数、放送される。
教育の現場にも理解が深く、2009年には、北九州市内の公立中学への密着取材を企画・コーディネートする。『NEWS ZERO』『NEWS リアルタイム』にて「長期密着プロジェクト・ありのままの公立中学」として、一年にわたり放送される。
2013年には、複雑な家庭環境から非行に走り、学校からも見放された14歳の少女との数年に及ぶ関わりが『news every』で放送。
この間にも、問題を抱えた人たちからの相談の電話は、鳴り止むことがなかった。家族だけでなく、医療機関や行政機関、弁護士など専門家、専門機関からの相談も増える。
説得の対象者が殺人未遂の犯罪者というケースや、闘う相手が反社会的組織というケースが目立つようになり、まさに「命懸け」の現場だらけになる。

2013年 精神保健福祉法改正をふまえ、新たな世界へ
2013年6月、精神保健福祉法が改正され、来年度(2014年4月)から施行されることが決定した。
この法改正により、精神保健の分野は大きく変わると予測している。今後、精神疾患による問題を抱えた人たちが、法の隙間、専門機関(医療や行政など)の隙間、家族の隙間……いわゆる「グレーゾーン」に陥る可能性があると感じ、危機感を抱いてもいる。
困っている人が見放されることがないよう、今後も徹底した「現場主義」のもと、超難関に挑んでいこうと決意を新たにする。
また、社会に対してもより一層、声を上げていくつもりである。