「物理では直感が大切だ」とはアルバート・アインシュタインの言葉だ。ではそれを鵜呑みにした高校生および大学生が直感に頼って物理をやったとしたら、果たして物理が得意になるであろうか?おそらく裏目に出るに違いない。なぜなら物理におけるもっとも基本的な能力は論理力、推理力、洞察力であり、直感では無いからである。ではアインシュタインはなぜこのような格言を残したのか?それはアインシュタインと同等レベルの天才物理学者にとって、直感が大切だ(とアインシュタインが考えた)からであろう。つまり物理学者が論理力を身に付けているのは当然のことであり、その上でさらに新発見をするのに必要なのが直感だというのである。このようなアドヴァイスは“天才にとっては”有益だが、物理を学び始めた人間にとっては無益どころか有害である。

一般的に人間は自分に足りないものを大切だと感じる傾向がある。だから格言は偉人本人が足りないと感じたものを表していることが多い。しかし偉人を偉人たらしめている本当の要因はそのような“偉人に足りない属性”ではなくむしろ“偉人にとって当たり前”の部分にあり、それは格言に表れない。だから偉人の本当の姿を理解したいのであれば格言の裏を読まねばならないのだ。

現代最高峰のピアニスト、クリスチャン・ツィメルマンは「ピアノは趣味」と言い切る。しかしそのピアニズムは深い洞察と弛まぬ努力に裏付けられており、決して趣味のような片手間で到達できる領域にないことは素人目にも明らかだ。つまりこの言葉も、彼の本質を表していないのである。彼にとってはピアノがすべてであり、ピアノのひとつのミスが人生の破滅と同等の重みをもって迫ってくるはずである。実際、10代のツィメルマンが批評家から幾度と無く「才能が無い」と言われながらもピアノを捨てなかったのは、捨てられなかったからである。自分からピアノを取ったら何も残らないという恐怖、それに追い詰められピアノを弾き続けざるを得なかった。それが結果的には20歳にして独自の演奏スタイルを完成させるに至ったのである。しかしそれは命を削るほどの努力だったに違いない。おそらくそのような経験から「ピアノにのめり込みすぎない」ための戒めとして生まれたのが前述の言葉なのかもしれない。その真偽は別として、少なくとも一般的なアマチュアピアニストが彼のようになりたいのであれば、ピアノにのめり込む必要があるのであり、決して趣味感覚でやってはいけない。

哲学者エピクテトスは「自分がどうなりたいか、まず自分自身に問え。しかる後、しなければならないことをせよ。」と言った。一般的に哲学者の残した格言には意志と行動を促すものが多く見られる。しかしその反面、哲学者自身は思考優先の人種である。彼らは自身の行動力の乏しさを痛感していたからこそ、このような格言を残したと考えられる。(ちなみに私の知り合いで「継続は力なり」を座右の銘としている人は三日坊主である。また中学時代の担任の好きな言葉は「全力投球」だったが、本人は高校時代遊び呆けて一浪して地方大学へ入った口である。一方で東大生の8割が好きな言葉は「なるようになるさ」だというが、本人たちは計画的かつ意志的に勉強してきた人種であり、常に「なんとかしなければ」というプレッシャーと戦ってきた人たちなのである。)

だから偉人を本当に理解したいのであれば、格言の裏を読め。




更新を楽しみに待っていてくださる読者の方には申し上げにくいのですが、自己都合によりこのブログは更新無期限停止とさせていただきます。何卒ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

「ラブひな」は大学受験を扱った作品である。しかし同じ大学受験漫画であるドラゴン桜が勉強法と受験テクニックを中心に取り上げた作品であるのに対し、「ラブひな」は大学受験を扱ってはいるものの、その見所はラブアンドコメディにある。よって読者がドラゴン桜に求めたものを本作品に求めてもそれは期待外れとなるであろう。とはいえ本シリーズが受験生の役に立たないかといえば必ずしもそう言い切ることはできない。本作品は受験という熾烈な競争に恋愛および喜劇という要素を上手に絡めて描かれている。だから受験生は本作品を読むことによって受験に対する否定的イメージを肯定的なそれに上書きし、さらには受験に対するモチベーションを高めることができるかもしれないのである。もちろん言うまでも無いが、本作品は受験生以外の読者が読んでも十分に楽しむことができるはずである。ただし一部の読者は頻発するエロ描写を毛嫌いするようである。しかしエロ描写といってもそれは決して生々しいものではなく、むしろギャクタッチで描かれている。このようなエロ描写は本作品のもっとも大きな魅力のひとつであり、「らぶヒナ」からエロを取ったらそれはもはや「ラブひな」ではなくなってしまう。であるからエロ描写をどうしても受け付けないという人は本作品を読むことは控えたほうがよいであろう。
本作品を読んでまず気づくことはそれが過去のラブコメディ作品のいいとこどりであるということだろう。たとえばアパート管理人とその居住者との恋愛は「めぞん一刻」ですでに取り扱われている。またヒロインが毛嫌いしていた男性に惹かれていくという流れは「ラフ」に代表されるようにラブコメの王道である。そしてこのようないわば「焼き直し」を理由に本作品を嫌う人々が少なからず存在することも事実である。もちろん漫画家の中には自分でアイデアを発明せず過去の有名作品からアイデアを盗んできてそれによって儲けている輩がいるのは事実だし、そのような安易な方法が平然と行使されることが見過ごされるならば、漫画の発展に悪影響を及ぼしかねない。それを阻止するためにも、パクリを断罪し、一から新たなアイデアを創作することを至上の価値とする主張がなされても、あながち不思議なことではない。しかし一方で古今東西の名作といわれるものは、それ以前の作品を吸収および発展させたものである場合が少なくない。たとえば、西洋のSF小説からアイデアをもらって漫画を描いたのがかの手塚治虫氏であり、さらに日本漫画の影響を受けて製作されたのが映画「マトリックス」である。それらの作品が過去の作品から影響を受けたものであるからといって、それらの作品の価値が低いことにはならない。そもそも文化の発展とはこのような影響なくしてありえないのではないか。そしてパロディが問題となるのは、影響を受けて製作された作品が過去の作品の換骨奪胎であるような場合に限るのではないか。とするなら「ラブひな」はそれに該当しない。先にも述べたが「らぶヒナ」の魅力はあくまで大学受験に関わるラブアンドコメディにあり、主人公がアパートの管理人であることなどは副次的な要素に過ぎないからである。

本作品について「過去作品からの影響」という観点から見たとき、外すことができないのがエヴァンゲリオンからの影響だろう。主人公浦島とヒロイン成瀬川を見れば漫画好きの人間のだれもがシンジとアスカを連想せずにはいられまい。容姿、性格、行動パターンまでもが瓜二つである。そして本作品の功績は、“エヴァの主人公たち”を「完全な平和な日常」の中で描いたことにある。エヴァの主人公たちのキャラクターはそれ以前の漫画にはなかった個性的かつ魅力的なものであるが、エヴァにおいてはその魅力が存分に描ききれていなかった。たとえばアスカのツンデレ属性はシンジとの関係性においてその持ち味を100%発揮するものであるが、エヴァという作品の主軸は人間関係だけでなく戦闘、世界観描写など複数あり、それゆえシンジとアスカとの関係描写が不十分だったのである。一方でラブひなでは主人公とヒロインとのドタバタ劇が作品の主軸となり、それぞれのキャラクターの持ち味を十分に堪能することができる。さらにエヴァの残酷さなど微塵も無い、のほほんとした日常が舞台となることで、彼らが生き生きと輝いて見えるのは気のせいではないはずだ。
以上で本作品の概略を述べた。次に本作品の詳しい内容に触れたい。本作品は大きく分けて二つの部分に分かれる。受験期と東大入学後である。そして本作品の醍醐味は受験期にある。受験期では成瀬川は浦島に惹かれていく。だが成瀬川はその事実を認めようとしない。なぜなら成瀬川という人間は自分の中にあらかじめ理想的な恋人像というものを持っており、それにふさわしくない相手を恋人と認めない人間だからである。そして成瀬川にとっての理想の相手が東大卒の瀬田さんである。一方でドジでスケベで浪人生である浦島は成瀬川の眼中に無い。そんな浦島が東大合格をもって名実ともに成瀬川の恋人となる条件を満たし、また成瀬川は浦島と付き合うだけの大義名分を得て、めでたくハッピーエンド・・・となるのが作者の当初の予定であったらしい。しかし哀しいかな、人気作品の運命は。本作品も例に漏れず延命されることとなったのである。東大合格後、二人の仲を邪魔する心理的障壁は無くなった。だからといって二人ラブラブというわけにはいかない。なぜなら「ラブひな」はおっちょこちょいの浦島が巻き起こすきわどいエロが売りの作品であり、二人が相思相愛になってしまったらそれはもはや「ラブひな」ではなくなるからである。そこで苦肉の策は、「なんとか理由をつけて二人はすれ違う」というものだ。さらに最終回間近の成瀬川はもはやツンデレのいじらしさなど見る影も無く、単なるわがまま女と成り果ててしまった。この点はファンからも批判されるところである。しかし受験期の部分に限れば、「ラブひな」は間違いなくラブコメ漫画の名作のひとつに数えられるはずだ。