1月下旬にスイスに戻り、翌日に検診へ。
残念ながら27週を過ぎても胎盤の位置があがることはなかった。つまり、このまま前置胎盤のまま、出産へと突入。つまり、100%帝王切開での出産が決定された。そしてこの日より、担当が個人の産婦人科からトラブルケースとして総合病院へ移った。

総合病院でのカウンセリングを受け、2月初旬に、早産の可能性を見据えて、胎児の肺機能促進のために入院をして点滴。ここで医療ミス発生。薬剤のオーバードーズ。血圧の急激な低下がみられると危険なので、なんだか15分ごとぐらいに血圧測定。そして、ナースがぴったり側にいる状況。おならもできない。病院長が謝罪にくるわ、この医療費がただになるわ(←保険でカバーなのでどっちにせよ影響なし)、個室に移されるわで、本人極めて良好な状態にも関わらずそんな事態になり逆に恐縮してしまった。

帰宅後は基本的安静。1月時点では自宅安静を命じられた。しかし、この自宅安静。やっかいである。そもそもじっとしていられない性格に加えて、動きたい盛りの娘がいる。幼稚園に行っているとは言え、送り迎えをしなくてはならない。「送り」は夫が会社に行く前にやってくれるのでいいのだが、4時に「お迎え」は誰がやるんだ?結局私がやらねばなるまい?

ただ、スイスの素晴らしいシステムが私の家事負担を激減してくれた。
Spitexというシステムがある。独居老人などを訪問して日常の諸々を手伝ってくれるシステムなのだが、老人じゃなくても独り身の自宅療養者などで医師のレターがあれば利用できる。もちろん適切な保険に入っていれば全額カバーしてくれる。このシステムを週1回利用して、洗濯、掃除、アイロンがけ等の家事から解放された。これは本当に助かった。

私が唯一やる家事は夕食作りだけである。そして、この夕食作りも友人たちが交替であれこれ差し入れをしてくれて2月から出産まで私が料理したのは数える程であった。しかも、私の友人たち揃いも揃って料理上手。東の料理師匠の幸子さん、西の料理ベテランでお料理教室をチューリッヒで開催している理子さん、デザートのプロである夕ちゃん、りえちゃん、よっしー、お寿司の先生の陽子さんと、まるでアメリカのフードチャンネル状態でごちそうが食卓に並ぶ日々であった。いやー、これならずっと自宅安静でもええわ!と思った次第。そして、買い出しや、赤ん坊を迎える用意はミホコちゃんが引き受けてくれた。彼女はフルタイムの仕事に戻ったばかりなのに、仕事帰りにちょこちょこ寄って助けてくれたのである。そして話し相手になってくれたのも支えてくれたのも全部友人たちだった。友人たちなしでこの妊娠を乗り切ることはできなかったわけで、大変に感謝している。この恩は決して忘れないし、また何かの形でお返ししたいと切に思っている。
素知らぬ顔をしてブログの更新。前置きとして、無事出産後、3月に産まれた娘はすくすくと育って早7ヶ月。有り難いことである。

さて、前回の続き。
ニューヨークに行って財産整理と仕事の整理をしなくてはならない。とはいえ、いつものようにベル家に滞在する。今回は妊婦ゆえ、手伝いも何もできないためさすがに遠慮しようと思ったが、ベル家の厚意に甘えさせてもらうことにした。

財産整理といっても大した財産はないわけで、今までかけていた拠出年金がどうなるかということ、アメリカドルで分散している個人金融資産、そしてソーシャルセキュリティーである。それぞれの口座の持ち主が合衆国外で死亡し、それぞれの受取人および相続人も国外にいる場合の手続きをする必要がある。

とにかく残される家族が遠隔操作で面倒くさいことをしなくてもいいように、個人金融資産は3つぐらいに分けていたのを一カ所に統括し、相続人がなぜか未だに両親と弟たちだったので、それを夫と娘に変更。この手続きはオンラインでももちろんできるが、アメリカのことである、何しろ信用ならない(笑)。妊婦腹ゆさゆさと窓口に出向くのが一番早いし確実。

拠出年金は口座の持ち主が年金が支払われる年齢まで生存しなかった場合はどうなるのかということを今回勉強させて頂いた。例えば私が生存期間中は65歳になるまでこの年金口座を解約及び引き出しはできない。ただ、私の死亡証明を相続人(私の場合は夫と娘)が持参すると、直ちに解約されそれぞれの資産となるのだそうだ。なるほど。そりゃそうだ。死んだ人間の口座までずるずる管理したくないよな。なお、産まれていないお腹の中の子供を法定相続人にすることはできないらしい。

面白いのはソーシャルセキュリティー、ま、アメリカ版国民年金みたいなものか。これは65歳まで本人が生存しない場合はまるまる国のモノとなるらしい。ただし、遺族年金というカテゴリーのものは遺族に対してもちろん支払われるとのこと。まあ、次女の毎月の保育園代ぐらいにはなるということか...。でも、アメリカのシステムに不安が残る以上、国外の遺族にきちんと支払われるのかということについてはあくまでも不明。まあいいや、これは。アメリカに置き土産と考えるか。

生命保険。そうだ、生命保険かけてたんだ、私。すっかり忘れていた。これはもちろんどの国にいても本人死亡時に遺族に支払われる。これは問題なし。

仕事。意気消沈して怒り狂ってるパートナーをなだめすかして、今抱えている仕事を終える。彼にとって我々家族は彼の家族(ユダヤの結束は相当のものである)なのである。これで残した仕事は何もない。あとは商品をお客様に届けるだけである。宝飾職人さんからは小さなゴールドのネックレスをお守りに頂いた。彼が作った木の葉のチャームがついたお守り。葉っぱは「再生」のモチーフだからとぼそっと彼は言う。私はこの頑固で無口な仕事仲間たちと一緒に仕事ができたこと本当に幸せだと思う。ぶっきらぼうでいつも不機嫌で(笑)でも心底愛情深いこの人たちと。

さて、ところ変わって正月は日本。
なにをおいてもいの一番にすることは墓参りに行くことと祖父母に会うこと。祖父母は私の状況を知らない。ただ妊婦が飛行機に乗って帰ってきたことを「アホだ」とブツブツ怒りまくっていた(笑)。そりゃそうだわな。
お墓を洗って手を合わせるだけで気持ちが落ち着く。今回は、「まだそっちには行きませんぜ、ご先祖さん!あたしゃ、やることまだいっぱいあるから、頼んまっせ、ホント。」と正真正銘の神頼み、いや先祖頼み。

会える人には会って、家族とお正月を過ごして、初詣に行って襟を正す。さあ、残りの妊娠を乗り切ろう。
ブログ読者の方からの有り難いご指摘で、誤情報を発信していたことが分かりましたので、お詫びと訂正を致します。

スイスでは胚移植を受精後2日目以内にしなければならないと記述しました。
が、法的にはその制限はなく、2日目以降の移植をスイスでは認可されているとのことです。
つまり、私はスイスのとあるクリニックから誤情報を与えられたという認識のもと、どうしてそのようなことが起きたのか現在調査中です。チューリッヒ大学病院で電話で確認したところ、「スイスでも二日目以降の胚移植を行える」という回答を頂きましたので、ここに訂正致します。

受精胚の冷凍保存は未だスイス国内ではできないという箇所はその通りです。

取り急ぎ、お詫びと訂正を致します。特に、スイスの法律を二つ以上の機関で確認しなかったのは当方の手落ち以外のなにものでもありません。大変失礼致しました。

ごんた

(ちなみに、ごんたは現在入院中につき、ブログの更新が遅れます。大出血をし、予定よりずいぶん早くの出産になりました。ごんたも一時医者が慌てた数分があったようですが、無事回復して今に至ります。また、落ち着いたら徐々に更新して参ります)
その後、妊娠生活は快適であった。前回もそうだったが、つわり症状は一切なし。全てを美味しく食べられるし、もりもりと食べられるハッピー妊婦である。これは大変幸せなことで文句はないのだが、ある意味、際限なく太っていってしまうという難点にもなる。つわりの苦しさを知らないので無知な人間の無神経な発言になってしまうが、つわりがあって食べられないとこの期間中の無駄な体重増加は防げるわけである。私の場合、前回70キロの大台!!!!(妊娠前52キロぐらい)に乗った悪夢の経験から、とにかく腹が減るのに食べることを制限するという苦しみを味わうことに。

今回は前回の体重を落とせず、55キロぐらいからのスタート。

ここでひとつアドバイス!
私は前回の妊娠からあまり間をあけずに2回目の妊娠をもくろんでいた。そのため、体重を落としたり体を戻したりすることを「無駄な努力」と思っていたのである。しかし、これは大きな間違い。私のように4年以上期間があこうと、年子で産もうと、一回一回体を戻す努力は怠ってはいけない。絶対にいけない。プロポーション維持の問題だけではない。この努力を怠ると、体は絶対に弱くなる(途中サイトメガロウィルスというものに感染したこともある)。風邪もひきやすくなったし、免疫力も落ちた。一方、ちゃんと体を戻した友人たちは元気に丈夫に走り回っている。大きな失敗であった。

さて、体重増加も厳しく管理しつつ、優秀妊婦とほめられていい気になっていたところ、19週目ぐらいでドクターに言われた。

「前置胎盤だわ、あなた。しかも全前置胎盤。」

難しい顔で超音波検査をしているドクターが言った。
なんですか?それは!!
「胎盤てね、通常は上についてるのよ。でも前置胎盤てのはね、下方についてしまっていて、子宮口を胎盤が塞いでる状態のことを言うのよ。つまり、これが移動しない限り自然分娩は無理ということ。帝王切開でしかも大量出血を前提とした危険な帝王切開になるということ。」

「ただ、前置胎盤は95%が27週までに胎盤が移動するから、今のところ普段通りでいいわよ」とのこと。

あっそ。びっくりするやんか。

「でも、今からリスクを説明するからよく聞いて。前置胎盤状態であるということは、出血があればそこで母体への危険性から妊娠はストップ。もし、今出血があれば胎児を助けられないかもしれない。生活する上で、重いものは持たない、無理はしない、運動はしないということをちゃんと守って。ただし、あなたは自分で会社を持って仕事をしている。今のうちに全てを整理しなさい。やるべきことはやって、お客さんにも説明して仕事は27週までにストップしなさい。分娩時に大量出血があるということは母体が命を落とすリスクも少なからずあるということを肝に銘じなさい。本当は勧めないけれど、あなたの親兄弟や友達は日本やアメリカにいるわね。万が一のために会っておきたいのなら今のうちに行ってきなさい。」

「最後に、この書類。万が一の場合、母体の命を優先するか、胎児の命を優先するかの意思を明確にして署名してもらうもの。旦那さんとよく話し合って決めてサインしなさいね。」

ここまで説明されるときりっと頭が冴えて冷静になっている。「私は基本的に胎児の命優先ですが、参考のためにこういうケースで人はどういう選択をするのか、またその理由が開示できるなら教えてください」と問う。

ドクターは「一概には言えないけれど、あなたのようにすでに子供がいる場合、母体の命を選択する人が多いことは確か。子供はまた産めるけれど、今いる子供にとっての母親は一人だからという理由。旦那さんの方が母体の命優先と主張するわね。子供は産み落とすだけじゃなくて育て上げることが大切だから。」と言った。

帰って夫と数時間話し合った。夫は絶対に母体優先だと言って聞かない。私は複雑なまま決められないでいた。心は胎児優先なのである。夫がちゃんとした人なので、必ずきちんと二人の子供を育ててくれるという自信があるからというのもあった。が、それは夫に二人の子育てを丸投げする私の無責任さにもとれる。苦労して授かった、あんなに夫が欲しがっていた二人目の子供である。夫には潤沢な経済力もある。私の代わりはいくらでも探せるし、家政婦だって雇える。でも「私たちの子供」はもう二度とできない。さんざん話し合って、お互いが完全には納得しないまま、「胎児の命優先」を選択した。

でも、目に見える形でこういう選択をしたのは私にとって大変有意義であった。サインをした瞬間から、今やっておかなければならないことが怒濤のようにリストになって出てきたからである。

仕事を終わらせること、
親兄弟、親戚の顔を見ておくこと
遺言書の再確認
娘に残すこと(もの)の準備
身辺整理

必然的に、身辺整理(アメリカに残してある財産整理と仕事の整理)のためにニューヨークに行くことは決定。親兄弟の顔を見るために日本に行くことも決定した。その日のうちにチケットを取った。

今の現代医学で前置胎盤の出産は、胎児をお腹に入れておく期間さえ適切であれば、母子ともに助かるケースが多い。よって、「何を大げさな!!」と思われるかもしれない。ただ、その確率は100%ではないだけに、後悔しないようにできるだけの準備はしておく必要はあると思うのである。そして、その準備期間はたくさんあればある程周到にできるわけで、今回ドクターがこういうことを19週目にて明確に教えてくれたことを私は大変感謝している。
ここからはカテゴリーが「不妊治療」から「スイスで妊娠出産」に変わる。

バケーションから戻ってきてすぐに産婦人科医にアポを入れた。Dr. Krusitzは私がスイスに来てからずっとお世話になっているファミリードクターでもあるので、子供がなかなかできなかったことも知っているし、不妊治療に踏み切ったことも知っている気心の知れた人である。その分、心拍確認がしたいと予約を入れたときの喜びようは尋常ではなく、「明日来なさい、明日!!!」と翌日の予約を入れてくれた。

オフィスに行くと、挨拶もそこそこに超音波マシーンに寝かされた。ドップラーでゆっくり心音を探る。トクトクという心音が確認できたときは感動した。ドクターはさらに超音波で念入りにもう一つの心音がないかどうかを確認している。というのも、受精卵は2個戻しているので、二つとも着床していればもう一つ心音が確認できるはずだからである。こちらの方は残念な結果となった。2個戻した受精卵は一個のみ無事着床し、もう一つは着床に失敗したのか、成長を止めてしまったのか理由は分からないが、出産に至る命ではなかったようである。

妊娠とは本当に不思議な現象であり、一人目のときのあの楽勝妊娠出産だけを経験していたならば、私は妊娠出産を非常に軽く見ていたであろうことは容易に想像がつく。そして、私の軽薄な人間性から考えると、簡単にできただけに子育ても簡単に考えて、何かに感謝するということもなかったのではないかと思うのである。子供に過度に期待し、自分の思い通りに育てようとしていたのではないかと。今いる子供にもこれから生まれて来る子供にも、「生まれてきてくれただけでありがとう」という気持ちを持てたのは、この経験を経たからこそのような気がするのである。

ちなみにこの時点で妊娠8週目ぐらいだったと思う。
12週までは周囲には言わないでおくつもりが、もはや見た目で無理。子宮が腫れていたのか、単なる食べ過ぎのデブだったのか分からないが、すでに、お腹のふくらみが十分に目立つ大きさで隠しようがなかったのである。この腹のサイズは今も十分三つ子ですか?と言われるぐらいの大きさを誇っている。

次回の検診は4週間後の12週目である。