何かを探している感覚。
何かを掴みたい感覚。
この人生で
本当にやりたいこと
は何だろうか。
夢中になれることは
何だろうか。
私も、何か
この人生で。
そうやって
”何かを探す”ステージから
ずーーーーーーっと抜け出せない。
なぜ、抜け出せないんだろう?
シンプルに
頭と、魂が、
バラバラ
何かを探している感覚や、何かが足りないと思う感覚。今の自分には無いなんかを探すような感覚。
これを感じているのだが、
その『感覚への理解・認識』がズレているが故に、その感覚が本当に求めている方向とは、違う方向へと自分を導いている。
ずっとずっと、同じところでぐるぐるしていたり、あまりにもスローペース過ぎる変容に自分も疲れてきていたり、変化を少しは感じてはいるものの大きな変化はなくそんな自分にも飽き飽き。
そういう時は大抵『自分を導く方向が空回り』してしまっている。”外側に答えを求めるな、全ては内側にある”というところに、一旦本気で集中すべきとき。
何か足りていない感覚というのが発生しているのは、やりたいことがないからでも、夢中になれることがないからでもなく
本当に向き合うべきことからずっと目を背けているから、それが心にぽっかりと空いている感覚として現れている。
今の自分からしたら、その『向き合うべきこと』というのは、『大きな課題』『目を背けたい課題』『封印し続けたい課題』なのかもしれない。
ただ、魂は、その課題を超えた先にある未来に進みたくて。そこにこそ、魂本来の私を存分に生きている世界が存在している。
”課題”と表現したけれど、そもそも”課題”でもない。そこに伴う感情があまりにも不快だから、”大きな課題”であると、エゴが認識してしまっただけで。課題でも何でもない。問題でもない。本当はもっともっと、軽くできる。
そして、そこに存在している、自分の人生からの愛に気づけるか。自分自身への愛に、気づける自分に、いつなれるか。
気づかないまま、人生を終えても良い。けれども、今ずっとずっと探している、その”何か”の鍵を握っているのは、その”課題”である。
人によっては、この”課題”を通して育まれた”器”でなければ、体験していくことができない人生があるのかもしれない。
自分が望んだ未来。そのための道が目の前にしっかり存在しているのに、自分が選り好みして「それは嫌です」「そことは向き合いたくありません」という態度を、自分の人生に対してとっていると、人生が止まり続ける。
”課題”と感じている時には、向き合うことが怖いし、嫌かもしれない。けれども、この課題を乗り越えることはそんなに難しいことではなく、
『難しいこと』『嫌なこと』という抵抗を弱めていくだけでいい。そうすればもう、後は勝手に現実が展開していく。気づいたら、より良い状態になっていたという展開になっていく。
人生を止めているのは『抵抗』
解決しようとしなくていい。
ただ、抵抗するのは、やめよう。
それだけでいい。
自分がすることは、それだけ。
あとは、人生が導いてくれるがままに。
自分の人生に存在する課題に対しての怖さを感じているということは、自分の人生に対して恐怖を感じているということとリンクする。そりゃ、人生はひらけない。
恐れを手放す。
何度もいうけれど、すぐに手放す必要はない。
「恐れを選択するのを、辞めよう。」
「抵抗を選択するのを、やめよう。」
その意志を持つこと。
ちょっとだけ、一雫分だけでいいから、変化へと向かってみようという、この心を持てるかどうか。
それが、魂を生きる器をまっすぐに育んでくれ、人生を先へと進めてくれる。
探している、その何かのことも、ちゃんと自分の人生が教えてくれる。