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「滝」
 道のないような、深い山奥でした。
 老婆を手押し車に乗せた、五十歳ほどの女がのぼってくるところでした。
 ひと知らぬ霧を分けて、女の顔は鬼のようにきしんでおりました。
 老婆は手押し車の上で、反対に、ニカニカと笑っておりましたが、その首には、絞められたように、両手のあとがにじんでいました。
 中年の女は、口をカニよりも平らに結んで車を押し上げておりましたが、霧がいよいよ重くなると、目をぎこぎこさせて口を開きました。
「かあさん。もうじき終わるのよ。これでやっと終わる。苦しい旅が終わる。滝にとびこんで、きれいきれいにいなくなるんだから。よっぽど苦しくないんだから」
 けれども、かあさんと呼ばれた老婆は、そんな言葉も分からずに、ますます笑っておりました。
 そのうえ、楽しそうに歌を歌い出したかと思うと、急に手を上に立てて、「ほら、あすこにクジラが飛んでいる」と言いました。
 虫の声すらしない場所に、老婆の笑う声と女のうなる音がこだましました。

 急に道が下ったかと思うと、景色がぐるりと変わりました。
 川の流れに出たのです。
 先には、滝がぞんぞん落ちていました。
「あすこだ、あすこだ。あすこに行って、きれいにこの世からいなくなろう」
 女は、そうつぶやきました。
 その時、老婆が落ちそうなほど身を屈めて、「あれ。神様がいっぱい泳いでいくじゃないか。ありがたや。ありがたや」と、川に向かってありがたがっているのでした。
 その声が、あんまり大きくて力強かったので、女はひっぱられるように目を川に向けました。
 確かに、いっぱい川の中を泳いでいます。
 もちろん、神様ではありませんでした。
 サケがたくさんたくさん川をのぼっていくのでした。のぼってくる間に、岩や石に体をぶつけて、鱗やひれがゴロゴロいうまで、のぼり続けているのでした。
 そして、いのちの最後の一滴をしぼり切るように卵を降ろすと、川底で帰らぬ眠りにつくものが多いのでした。

 女は、ゴトリと、腰から座りこみました。
 自分は死ぬためにここへ来たのに。
 女には、どうしてサケがこんな思いをして、ここへ来るのか分かりませんでした。
 生まれたところが懐かしくて来ているようには、どうしても思えませんでした。
 そのうえ、死に場所を求めて来ているとは、どうしても思えませんでした。
 命の橋をかけるために、どうしてここへ来るのか分かりませんでした。
 ただ、自分の生き方とは全く違うということだけは感じていました。

 もっちゃ  もっちゃ  もっちゃ

 さっきからしている小さな音に、女はやっと気がついて、音の方へ首を回しました。
 すると、手押し車が倒れていて、老婆が川べりで水と遊んでいます。
 足が動かないのに。
 はっていったのかしら。
 そのまま落ちないで。
 女の心に、瞬間にいろいろな言葉が押し寄せて、思わずあわてて駆け寄りました。
 振り返った老婆は、女の顔を指して、「やあ、きれいな水が流れているねえ」と言いました。
 知らずと、女の目から涙が出ていたのです。自分が泣いていることも、いま、初めて知ったのでした。
 老婆の―母の目は澄んでいました。
 女は、手押し車と母を、交互に見やりました。
 自分の泥まみれの靴と、流れに揺れる母の着物の裾とを、交互に見やりました。
 その右手がウロウロして、あっちこっちを探りました。そして、ポケットの固いものに当たりました。乾パンの入っている缶でした。
 ほっとしたように、「かあさん。お腹すいていない?」と聞きました。
 すると、「この水飲んだら、お腹いっぱい」と、母は笑って手をばちゃばちゃしました。
 こんな風に話しを交わしたのは、何年ぶりでしょう。

 女は突然、うわーと叫んで、水に飛び込みました。
 サケがびっくりして、川面をはねました。
 女は、ずっぷり、水につかりました。
 顔の横をサケが過ぎて行きます。
 女は、ごっぷごっぷ、水を飲みました。
 女の、のどと体の周りを水が過ぎて行きます。
 ああ、おいしい。
 滝の水なんだ。
 この水は、ふくらんでいるのだもの。
 まあるく、ふくらんでいるのだもの。

 女は、きっぱりと体を起こしました。
 それから、急にもじもじして、母の方に向きました。
「おかあさん。あたし、ここにいたい。住んじゃってもいいかな。ねえ、いいでしょう、おかあさん」
 母は、笑っていました。
 女は―娘は、とびついて泣きました。

 川のにおいが、どんどん濃くたちこめてきました。
 川の水に、木の根っコのにおいが溶けていました。
 岩や石の想いが溶けていました。
 きれいな光がつつまれていました。
 ぞんぞん ぞんぞん ぞんぞん ぞんぞん
 ぞんぞん ぞんぞん ぞんぞん ぞんぞん
 滝の落ちる音が、いつまでも鳴っていました。


(おしまい)