「三界は唯心の所現」(心の法則)からすれば、『「住吉大神」の実相世界を心で観れば、実相世界が現れる』事は当然なんだが、人間心(現象の心)を以て、「実相を観る」事はできない。「実相を観る」とは「神の世界を観る」事だが、それは、「神」でしかなし得ないことだ。


つまり、現象人間が想念を描く事によって、「実相を観じる」という事はあり得ない。実相を観じる為には、「斎女の神」を呼び出して、「斎女の神」(清らかに魂、幼心)によって、直接「神が神を観る」必要がある。その「斎女の神」の役目は、「住吉大神」を唱える・・・・という純粋な「童女」(幼子)の様な生き方でなければならない。幼子が、母親や父親に対して「パパ」「ママ」と唱える様な純粋無垢な眼差しでなければならない。


キリストが、「幼子の如くならずんば、神の国に入る事能わず」と言われた事は、名言だと思う。それが、「斎女の神」の出現となる。信仰(魂の向上・浄化)にも様々な段階が存在する。最初の段階では、他動的に「心の法則」によって、「業の自壊作用」として「因果の法則」を学ぶ事になる。

そして「塩椎大神(宇宙の大言霊)」によって、「真理の言葉(真理の書籍)」によって、「神の世界」を知的に知る事になる。

そして最後の段階では、「幼子(斎女の神)」の心境で、素直に、親の胸に飛び込む様に、「神様〜!」と神様の懐に飛び込む必要がある。その時、「神の世界(住吉大神)」の懐の中に、自分が居る事が実感できる。それが「神我一体」の境地と言える。

これが、『古事記』に書かれた、「伊邪那岐大神」の禊祓いの最終段階だと思う。それは実に簡単なことであった。素直に幼子の心境になって、親様の目を真っ直ぐに見つめて、「神様!」と甘えれば良い。それは丁度、愛する恋人の胸の中に飛び込む事と全く同じ気持ちだと思う。これほど幸せな瞬間は無いだろう。

その時、「新天新地の神示」に書かれている様に、『吾を呼ぶ者のもとに吾れは常にありて、汝らのために汝らの重きくびきを輕からしめる。』
『汝ら事にのぞんでわれを呼べば、自己の知らざる智慧の湧き出づるに驚くであらう。』
という「住吉大神の完全円満大調和の世界」が、突如として幻出することになる。

ニールさんが、「神との対話」を始めるきっかけになったのは、まさにその心境だったのだと思う。ニールさんは、余りにもうまくいかない人生を憤って、「神様に素直に文句の手紙を書いた」・・・これが「斎女の神」の心境だったのだと思う。ニールさんは、幼子の心を持っていたのだ。ニールさんは「甘え上手」に違いない。

「素直に神の懐に入る」事は「幼子の心境」であり、神様に甘える事、神様に帰る事になる。だから、ニールさんに、「住吉大神(住吉の世界)」の「実相世界」が出現したと私は信じる。
谷口雅春先生も又同じだった。うまく行かない人生(清貧と病気と家庭苦)に苦しんでいた先生は、神様に素直に祈った。神からの啓示を受けるべく瞑目合掌した時、神の啓示を受ける事になった。その時、「生命の実相の真理」を悟ることができた。それは天来の声となり、「神との対話」となって降り注いだ。
雅春先生も又、「斎女の神」となって、素直に「神の御名」を呼んで、「神の御懐(実相世界)に飛び込む」事ができたのだ。

釈迦もそうだった。難行苦行の数年を経て、悟りを開けなかった釈迦は、苦行を捨てて、(自我の努力を捨てて)、川のほとりで座禅を組んだ。「もうこれで悟れなければ死んでも良い」と神・佛に静かに振り向いた。これが、釈迦自身が「斎女の神」(童心・幼子の心境)になって、親様の御懐に飛び込んだ瞬間だったのだろう。その時、バラモンの娘が牛乳の粥を釈迦に供養した。それは神仏(観世音菩薩)の化身であったのだろう。釈迦の世界に神仏(実相世界)が顕現することになった。釈迦は悟りを開いた。


すべてのマスターは、このようにして、『古事記』の預言の通りに、禊祓い(魂の浄化の過程)を経て、「存在の実相(神の世界)」を見出したのだと思う。その最後の段階は、自らが「斎女の神」となって、幼子の如く、童女の如く、自我の努力を放棄して、何の疑問も為しに、親様(神様)の目を真っ直ぐに観て、「神様〜!」と呼びかける事なのだと思う。

ニールさんの「神との友情」の7つの段階に次の様に書かれている。
① 神を知る
② 神を愛する
③ 神を信頼する
④ 神を抱き取る
⑤ 神を利用する
⑥ 神を助ける
⑦ 神に感謝する

④が、「斎女の神」となって、神(実相の神、住吉大神)に素直に呼びかける・・・事に該当すると考えられる。その為には、①〜③が必要になる。幼子は、誰にも教えられる事なく、① 神を知る、② 神を愛する、③ 神を信頼する、要素を身に付けている。それは目の前の「親」に対しての「知」と「愛」と「信頼」となって現われている。だから、何の努力も無しに、④ 神を抱き取る、即ち、親に甘えて抱きついて、⑤ 神を利用する(親を利用する)事を自然にしている。

幼子程、上手に親を利用している者はいない。

『古事記』の伊邪那岐大神の禊祓いの中の「斎女の神」と「住吉大神」の働きの意味は、この様に解釈出来ると思う。

 

 

    あまむし庵