歴史的一戦の隣で。
今日はどこもかしこもUEFA Champions Leagueの話題でもちきりなのであえて違う問題について取り上げたいと思う。
このところイタリアは連日のごとく、どこかで何かがストライキ(イタリア語でショペロ)で、止まっている。
ちなみに今日はイタリア中の全空港が一日ストライキ。
但し、さすがに全く飛ばないのも法律上禁止されているらしく、午前午後合わせて数時間は業務するらしい。
まるで年中行事の一つであるかの様に自然な感覚で、それはある日突然発表され、そのわりにはかなりの確率で施行される。
日本のように毎度毎度”ストの予定”と、名ばかりの実際起きないお国柄とは違う。
いつだったかある家族が『この頃日本から郵便来ないね。とうとう忘れられたかね~』と、夫にからかわれ半ベソをかいた事があったようだが、それは郵便局のストライキであった。この時は3ヶ月間続き、その間小さな郵便局は全面ストップ、主要局のみ間引き営業。全くふざけた?真剣な?イベントである。
トラブル続きの末半年後にようやくその家に届いた”半生熟成味噌煮込みうどん”を開封する勇気も無く、泣く泣く処分したという話は
は今でも忘れられない。食物の恨みは恐い。
それにも増して今回はすごい。先週はイタリア中のタクシーを除いた全交通機関が、半日ストライキ。当然、道路は車で溢れ大渋滞、街はカオスと化す。
”今日はやけに静かな試合だなあ”と、サッカー中継を見ていたら、なんと解説者がストライキをしていた。個人的にはやたら機関銃のようにがなり立てるイタリア風解説付より、この方が好みだが。
今回の理由ははっきりしている。昨夏、新首相に選ばれたベルルスコーニ氏率いる内閣が、このほど打ち出した労働者憲法改正案に反対、抗議の行動らしい。
この改正案とは会社や雇用主側の自由意志で、従業員の解雇を出来るようにしよう、と言うもの。イタリア中の労働組合が怒りを爆発させるもの、無理のない事だろう。
ちなみにベルルスコーニ氏は第74・79代の首相を歴任、81代(現職)であるだけでなく、イタリアのメディア王と呼ばれ、全国的な地上波放送を行う民間放送4局のうち、Italia 1、 Rete 4、Canale 5の3つを所有する。イタリアのメディアの70パーセントをコントロールするといわれる。
政界への進出は1990年代に入ってから。1993年頃から追及が始まった汚職疑惑で、キリスト教民主主義を始めとした政権与党が崩壊寸前に陥る間隙をぬって、1994年1月フォルツァ・イタリアを結成。豊富な資金力と支配下のメディアの積極的な活用で下院議員に当選し、国民同盟・北部同盟と連立政権を画策した。自身は同4月、戦後第53代イタリア首相に就任した。
そして余談ではあるがイタリアサッカー1部リーグ(セリエA)ACミラン前会長でもある。
話を戻すがそれでは何故、医者や教師さえも含む多くの労働者による労働者憲法改正案反対のストライキを受けながらもこの改正案をとりさげないのか?
なかなか興味深い疑問だ。
その理由、答えとして地方分権、州の権限強化・独立性の強化などさまざまな理由があげられるがこの憲法改正案を却下しない最大のの理由は「首相の権限強化」だろう。
イタリアの首相は憲法上「内閣の議長であり、大日本帝国憲法下の首相のような「同輩中の首席」にとどまる。議会の多数派の支持を基盤に持つことが明文上は前提とされておらず、大臣の任免権すら持たない。
権限は弱められているものの、大統領がなお首相指名権、大臣任命権を有し、軍の統制権をはじめとする権限を保有する独仏の大統領の中間といえる。
個人の意見としては第74・79代の首相を歴任、そして今日81代首相となったことで国民の労働環境を考えるよりも先に、ある種の「私欲」が出てしまったように感じる。
だが彼の失言はそれだけでなく、アメリカ同時多発テロ事件の直後には「残念ながらムスリムは1400年前の価値観に留まっており、西洋世界はムスリムや共産主義者にはない、自由を愛する原則と価値観を護らねばならない」と発言して物議を醸したこともある。
これからじっくりと時間をかけ、本来の彼の人柄の良さを見せてほしいところだ。
どうやらこれからも彼は良い意味でも悪い意味でも私たちをさわがせてくれそうだが、僕はそんな「ベルルスコーニワールド」に期待したいと思う。
このところイタリアは連日のごとく、どこかで何かがストライキ(イタリア語でショペロ)で、止まっている。
ちなみに今日はイタリア中の全空港が一日ストライキ。
但し、さすがに全く飛ばないのも法律上禁止されているらしく、午前午後合わせて数時間は業務するらしい。
まるで年中行事の一つであるかの様に自然な感覚で、それはある日突然発表され、そのわりにはかなりの確率で施行される。
日本のように毎度毎度”ストの予定”と、名ばかりの実際起きないお国柄とは違う。
いつだったかある家族が『この頃日本から郵便来ないね。とうとう忘れられたかね~』と、夫にからかわれ半ベソをかいた事があったようだが、それは郵便局のストライキであった。この時は3ヶ月間続き、その間小さな郵便局は全面ストップ、主要局のみ間引き営業。全くふざけた?真剣な?イベントである。
トラブル続きの末半年後にようやくその家に届いた”半生熟成味噌煮込みうどん”を開封する勇気も無く、泣く泣く処分したという話は
は今でも忘れられない。食物の恨みは恐い。
それにも増して今回はすごい。先週はイタリア中のタクシーを除いた全交通機関が、半日ストライキ。当然、道路は車で溢れ大渋滞、街はカオスと化す。
”今日はやけに静かな試合だなあ”と、サッカー中継を見ていたら、なんと解説者がストライキをしていた。個人的にはやたら機関銃のようにがなり立てるイタリア風解説付より、この方が好みだが。
今回の理由ははっきりしている。昨夏、新首相に選ばれたベルルスコーニ氏率いる内閣が、このほど打ち出した労働者憲法改正案に反対、抗議の行動らしい。
この改正案とは会社や雇用主側の自由意志で、従業員の解雇を出来るようにしよう、と言うもの。イタリア中の労働組合が怒りを爆発させるもの、無理のない事だろう。
ちなみにベルルスコーニ氏は第74・79代の首相を歴任、81代(現職)であるだけでなく、イタリアのメディア王と呼ばれ、全国的な地上波放送を行う民間放送4局のうち、Italia 1、 Rete 4、Canale 5の3つを所有する。イタリアのメディアの70パーセントをコントロールするといわれる。
政界への進出は1990年代に入ってから。1993年頃から追及が始まった汚職疑惑で、キリスト教民主主義を始めとした政権与党が崩壊寸前に陥る間隙をぬって、1994年1月フォルツァ・イタリアを結成。豊富な資金力と支配下のメディアの積極的な活用で下院議員に当選し、国民同盟・北部同盟と連立政権を画策した。自身は同4月、戦後第53代イタリア首相に就任した。
そして余談ではあるがイタリアサッカー1部リーグ(セリエA)ACミラン前会長でもある。
話を戻すがそれでは何故、医者や教師さえも含む多くの労働者による労働者憲法改正案反対のストライキを受けながらもこの改正案をとりさげないのか?
なかなか興味深い疑問だ。
その理由、答えとして地方分権、州の権限強化・独立性の強化などさまざまな理由があげられるがこの憲法改正案を却下しない最大のの理由は「首相の権限強化」だろう。
イタリアの首相は憲法上「内閣の議長であり、大日本帝国憲法下の首相のような「同輩中の首席」にとどまる。議会の多数派の支持を基盤に持つことが明文上は前提とされておらず、大臣の任免権すら持たない。
権限は弱められているものの、大統領がなお首相指名権、大臣任命権を有し、軍の統制権をはじめとする権限を保有する独仏の大統領の中間といえる。
個人の意見としては第74・79代の首相を歴任、そして今日81代首相となったことで国民の労働環境を考えるよりも先に、ある種の「私欲」が出てしまったように感じる。
だが彼の失言はそれだけでなく、アメリカ同時多発テロ事件の直後には「残念ながらムスリムは1400年前の価値観に留まっており、西洋世界はムスリムや共産主義者にはない、自由を愛する原則と価値観を護らねばならない」と発言して物議を醸したこともある。
これからじっくりと時間をかけ、本来の彼の人柄の良さを見せてほしいところだ。
どうやらこれからも彼は良い意味でも悪い意味でも私たちをさわがせてくれそうだが、僕はそんな「ベルルスコーニワールド」に期待したいと思う。
Is my thinking unusual?
いきなりではありますが、こちらのブログで今まで勉強状況を書いていましたがなんだか違う気がするのでこっちには日々の生活を書いて行こうかと思います。
それでは早速本題へ。
実は最近少しだけなのですがある本を読みました。
その本は「氷上のアーティストたち」というプロフィギュアスケーター兼スポーツキャスターの八木沼純子さんの著書。
この本はトリノオリンピックの直前期に書かれたもので少し古い本なのですが、日本の男子、女子のシングルスケーターへの深い取材を元に作られているため各スケーターの日常のワンシーンなど、非常に深い内容になっていて、スケートファンでなくても楽しめる一切となっています。
皆さんご存知のようにトリノ金メダリストの荒川さんをはじめとする16人のスケーターが本の中で登場するのですが、僕が目をつけたのは村主章枝さん。
一般的に日本のトップスケーターというと幼少期からはじめる人が多いのですが、彼女は15歳から本格的な練習に取り組みはじめたそうで、安藤美姫さんが14歳で4回転を跳んだのを考えると、少しスタートが遅かったようです。
しかし村主さんの特筆すべきポイントはなんと言ってもハートの強さ!
彼女はどんなに疲れていても、練習がしたくてしたくて仕方なかったようで、練習のし過ぎでコーチに止められることもしばしばあったそうです。
彼女はオリンピックに出ることが夢で、そして彼女の座右の銘は「自分に勝つこと」。
常にオリンピックという夢に向けて自分に厳しく、前へ前へと突き進むたゆまぬ向上心。
これが今の彼女の地位を表し、あの情熱的なステップを魅せることができる、最大の要素であることは間違いないでしょう。
彼女が初めて出場した、2002のソルトレイクシティー五輪での不祥事により新しくなった採点システム。
これによりスケートは今まで以上にやらなくてはならない技が増え、以前に比べてルールに縛られたスポーツへと変わりました。
採点システムの変化により選手たちが点数を意識するなったことで、あらゆる選手が難易度の高い技(ジャンプやステップなど)に挑戦するようになりました。
しかし村主さんは今の新しくなった採点システムに不安を抱いています。
一見、皆が難しい技に挑戦することはスポーツの発展に貢献しているように思えなくもないですが、逆に言うと皆が難しい技に挑戦するということは各選手が同じような技に挑戦するということで、それは個性の損失に繋がります。
フィギュアスケートというスポーツはサッカーやバスケや野球のように誰がどう見てもわかるような物理的な理由の元に点数が入るわけではありません。
スケートの場合、点数は審判の主観によって決まります。
つまり審判の主観で決まるということは普段私たちが絵や音楽を見たり、聞いたりして感じている芸術となんら変わりはないということ。
村主選手が言いたいのは
「もはや芸術とも言える領域のスポーツであるフィギュアスケートで各々が点数ばかり気にするようになり、個性を失えばフィギュアスケートの本質、あるいは概念と言ったものが失われてしまう。」こういうことなんです。
この意見は僕にとって精通するものがありました。
例えば僕はバンドでドラムをやっているのですが、やはり「上手い」ということに魅力を感じてしまい、技術ばかり気にしてしまいがちです。
しかし技術を会得し、発表することは決して悪いことではなくむしろ良いことです。
ただ、芸術というものの本質や概念というものを忘れてしまうのはあまりにももったいないことではないでしょうか?
今のこの弱肉強食の実力主義社会において技術や実力ばかりを重要視し過ぎるあまり、私たち現代人は感じることを忘れてしまいがちではないでしょうか?
音楽や絵画、工芸や書道、私たち現代人はこういった芸術を感じる感性が鈍りつつあります。
物事の見かけだけに捕われずにその本質を見極め、感じられる人こそが真の日本人なのではないでしょうか。
昔から風情や情緒を気にしてきた日本人の芸術に対する目は廃れてしまったのでしょうか。
そんなことはないと思います。
ただちょっと視点を変えるだけで見えてくると思います。
感じることができると思います。
なぜなら私たちはドラマを見て泣くことができるのですから。
このようにちょっと視点を変えることでより深みのある日本人になれるチャンスを得ることができます。
僕自身もこの本を読んで私生活の見落としがちな点を痛感させられました。
もし機会があったら皆さんも身近な芸術を感じてみてはいかがでしょうか?

それでは早速本題へ。
実は最近少しだけなのですがある本を読みました。
その本は「氷上のアーティストたち」というプロフィギュアスケーター兼スポーツキャスターの八木沼純子さんの著書。
この本はトリノオリンピックの直前期に書かれたもので少し古い本なのですが、日本の男子、女子のシングルスケーターへの深い取材を元に作られているため各スケーターの日常のワンシーンなど、非常に深い内容になっていて、スケートファンでなくても楽しめる一切となっています。
皆さんご存知のようにトリノ金メダリストの荒川さんをはじめとする16人のスケーターが本の中で登場するのですが、僕が目をつけたのは村主章枝さん。
一般的に日本のトップスケーターというと幼少期からはじめる人が多いのですが、彼女は15歳から本格的な練習に取り組みはじめたそうで、安藤美姫さんが14歳で4回転を跳んだのを考えると、少しスタートが遅かったようです。
しかし村主さんの特筆すべきポイントはなんと言ってもハートの強さ!
彼女はどんなに疲れていても、練習がしたくてしたくて仕方なかったようで、練習のし過ぎでコーチに止められることもしばしばあったそうです。
彼女はオリンピックに出ることが夢で、そして彼女の座右の銘は「自分に勝つこと」。
常にオリンピックという夢に向けて自分に厳しく、前へ前へと突き進むたゆまぬ向上心。
これが今の彼女の地位を表し、あの情熱的なステップを魅せることができる、最大の要素であることは間違いないでしょう。
彼女が初めて出場した、2002のソルトレイクシティー五輪での不祥事により新しくなった採点システム。
これによりスケートは今まで以上にやらなくてはならない技が増え、以前に比べてルールに縛られたスポーツへと変わりました。
採点システムの変化により選手たちが点数を意識するなったことで、あらゆる選手が難易度の高い技(ジャンプやステップなど)に挑戦するようになりました。
しかし村主さんは今の新しくなった採点システムに不安を抱いています。
一見、皆が難しい技に挑戦することはスポーツの発展に貢献しているように思えなくもないですが、逆に言うと皆が難しい技に挑戦するということは各選手が同じような技に挑戦するということで、それは個性の損失に繋がります。
フィギュアスケートというスポーツはサッカーやバスケや野球のように誰がどう見てもわかるような物理的な理由の元に点数が入るわけではありません。
スケートの場合、点数は審判の主観によって決まります。
つまり審判の主観で決まるということは普段私たちが絵や音楽を見たり、聞いたりして感じている芸術となんら変わりはないということ。
村主選手が言いたいのは
「もはや芸術とも言える領域のスポーツであるフィギュアスケートで各々が点数ばかり気にするようになり、個性を失えばフィギュアスケートの本質、あるいは概念と言ったものが失われてしまう。」こういうことなんです。
この意見は僕にとって精通するものがありました。
例えば僕はバンドでドラムをやっているのですが、やはり「上手い」ということに魅力を感じてしまい、技術ばかり気にしてしまいがちです。
しかし技術を会得し、発表することは決して悪いことではなくむしろ良いことです。
ただ、芸術というものの本質や概念というものを忘れてしまうのはあまりにももったいないことではないでしょうか?
今のこの弱肉強食の実力主義社会において技術や実力ばかりを重要視し過ぎるあまり、私たち現代人は感じることを忘れてしまいがちではないでしょうか?
音楽や絵画、工芸や書道、私たち現代人はこういった芸術を感じる感性が鈍りつつあります。
物事の見かけだけに捕われずにその本質を見極め、感じられる人こそが真の日本人なのではないでしょうか。
昔から風情や情緒を気にしてきた日本人の芸術に対する目は廃れてしまったのでしょうか。
そんなことはないと思います。
ただちょっと視点を変えるだけで見えてくると思います。
感じることができると思います。
なぜなら私たちはドラマを見て泣くことができるのですから。
このようにちょっと視点を変えることでより深みのある日本人になれるチャンスを得ることができます。
僕自身もこの本を読んで私生活の見落としがちな点を痛感させられました。
もし機会があったら皆さんも身近な芸術を感じてみてはいかがでしょうか?

