日常のメモ
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「ラ・カージュ・オ・フォール(La Cage Aux Folles )」をベルリンで観る

ベルリンのKomische Operで「ラ・カージュ・オ・フォール(La Cage Aux Folles )」を観た。

 

演出はこの劇場の首席演出家、バリー・コスキー。ポップで色鮮やかで、斬新な演出で評価が高いし、とても人気がある。この作品でも、色のセンス、ゴージャスさが際立っていた。各シーンとも、まさに目覚ましく鮮やか。特に大人数でのコーラスのシーンは花火を見ているかのようなインパクトがあった(「たーまやー」と言いたくなるほど)。

 

劇場経営者とその劇場の看板スターというゲイのカップルの息子が恋をした相手の父親が超保守的な政治家、という筋立てで、「 ありのままの私 I Am What I Am 」というアリアからも察せられるように、同性愛者たちの生きざまや悩みが取り上げられている。重いテーマではあるけど、根本的にはハッピーで、なかなかクレイジーという雰囲気が貫かれている。2時間半のドラマの中で、徐々に感情移入していくと、彼らをめぐる色々なことが実感されてきて「そら本当に大変だよな」という気分になってくる。ここら辺は新聞や学校の授業などで情報として「差別はいけない」という道徳を習うより、ずっと心にも頭にも届き、残ると思うので、教育プログラムとして色んな人に見せた方がいいのではないかとさえ思ってしまう。

 

主役のジョルジュ(劇場主)とザザ(看板スター)の歌唱が秀逸だった。いわゆるオペラ的な歌い方ではなく、ミュージカルっぽい、あるいは1920年代を彷彿とさせるようなちょっと「崩した」ような歌い方で、ある意味とてもベルリンらしい音ではあった。ザザの歌は、往年のサラ・レアンダーなどを思わせる、しわがれた、やや憂いのあるシャンソンっぽい歌唱。それに対してジョルジュは、朗々とした、明るい歌声。僕自身はオペラやミュージカルの男声はそれほど好きではないのだが、この人の歌にはうっとりさせられるほどだった。こうした歌唱が全編にアクセントとして散在しているので、決して間延びがしない。そして、伴奏。ここのオーケストラは本当に素晴らしい。精巧な技術という点ではベルリンフィルとかのレベルではないのかもしれないけど、彼らには明らかに「グルーヴ」がある。つまり、心地の良い波があり、それに乗っていけるような演奏。こうしたポップな作品にはとりわけうってつけではないだろうかと思うし、ひいてはロックやエレクトロなどの他ジャンルのコラボも、どこかの著名オーケストラより、ここのオケのほうがずっとはまるのではないかと思う。

 

この作品は、今シーズンたしか6回ぐらい上演されるはずだが、全て完売。今日も満席。この劇場はゲイの(とくに男性)に人気があるらしく、それはいつも目立つのだが、今日はとくに多かった。エキサイティングで煌びやかな演出とあいまって、客も大盛り上がりで、まさに祝祭の様相を呈していた。

 

日本でも上演されているようだけど、客も含めてどんな感じになるのだろうかと興味がわいてくる。

日本では感染者数がなぜ少ないのか - ヨーロッパと比べて

日本でもかなり感染者数が増えてきたけれど、ヨーロッパと比べてまだ桁違いに少ない。ただ、テスト数も桁違いに違うので、東京や大阪などの大都市だけ取ってみれば、実数はさほど変わらないのかもしれないが。では、なぜ日本でそれほどまでにコロナ感染を抑えられている(と仮定して)のだろうか。

 

政府がこれほどまでに無能、無策な状況でこれだけ抑えられているのは、一般市民の努力以外の何物でもない。成功の秘訣は、一般人にあり、ということで、市民の行動のあり方の違いを比較してみようと思う。

 

・市民(日本国籍者、外国籍者あわせて)が生真面目で、マスク着用などのこまごまとした規則をしっかり守る。一般規則に従順である。これに対し、ドイツに関して言えば、9割以上の人は規定の場所ではマスクをしているだろうが(屋外ではしない)、ルールを無視する人は日本と比べてかなり多いように見える。または、規則に不満を持った人たちがヒステリックになって集団で大騒ぎをしたりもする。これだけ死者が出ていても、政府の対策(かなりまとも、国際的にも評価されている)に反対する大規模デモ(数千~数万人)が衛生対策ほぼ無視で行われている。これは、日本では考えられないだろう。

 

・島国なので、国境を遮断しやすい。ヨーロッパではこれはかなり難しい。地続きだし、EU内では基本的に往来は自由なので、もし国境を閉めようと思ったらとんでもない手間がかかる。台湾、韓国、オーストラリア、NZなど、コロナ抑止に成功しているほかの国を挙げると、これはかなり重要な要素であることが察せられる。マクロな規模での人の流れのストップ。

 

・生活習慣の違い。日常の挨拶としてハグやキスをしない、人とコミュニケーションを取るときに基本的にはより大きな距離を開けていることも、飛沫感染の対策となっているに違いない。ハグが普通のドイツにとって、これはかなりつらいし、窮屈。悪いことをしているわけではないので、危険だと分かっていても、友達や家族と会えば、どうしてもやってしまう。これが、離れ際のボディーブローのようにして後で効いてくる。

 

・人との集まり方。これは前項と重なる。日本では人と集まって、お酒を飲んだり、お茶やコーヒーをしながら話をしたりするときに、通常は「外で」会うと思う。家の中で人と集まることは、住宅事情などから考えても少ないだろう。いずれにせよ、ドイツなどと比べると圧倒的に少ない。こちらではホームパーティーは日常茶飯事で、レストランなどで一緒に食事をするよりも多いはずだ。だから、飲食店が閉鎖されても、ルール無視で自宅で集まろうと思えば、いくらでもできる。ここにはさすがに司法の手はほぼ及ばない(大きなパーティーでもしない限り)。こうした、私的な集まりが感染の温床になっているとはよく言われている。もしかすると、これこそが日本とこちらとの感染状況の大きな違いの決定的理由ではないかと思われてくる。密室で人と会うのが一番リスクが高いとされているのだから。

 

と、箇条書きで並べてみた。

 

ただ、感染力が圧倒的に強い変異株が広がった今、日本が欧州の後追いをすることも危惧される。例えばポルトガルなどでは、変異株によって感染者が激増したものの、その後の厳しいロックダウンによって何とか抑え込むことに成功した。ドイツでは、ロックダウンは厳しくないものの、ワクチン接種が進んできているので、何とか収まって来てはいる。日本では、ワクチン接種が急進展することは考えられないので、現時点での有効な対策はおそらく厳しいロックダウンのみだろう。

 

以上、あくまで自分の頭の中に散らばっていた情報のまとめとして。

 

 

 

 

Françoise Cactus、マダム・カクトュース

ベルリンには、世界各地、とりわけヨーロッパの色々な国からミュージシャンが集まってきます。David Bowieは70年代にベルリン3部作を作ったし、U2もあの有名なハンザスタジオで録音しました。芸術の種類を問わず、ベルリンは多くのアーティストを惹きつけているようです。

 

そんなベルリンに住み着き、この町のアイデンティティに欠かせない存在にまでなった人もいます。そんなアーティストの1人が、 Françoise Cactus(フランソワーズ・カクトュース)。日本ではほとんど知られていないかもしれません。80年代にベルリンにやってきて以来、パンクバンド「 Lolitas 」、エレクトロポップ・デュオ「 STEREO TOTAL 」で名を馳せました。ガレージロック、トラッシュ、ポップ、パンク、ビートミュージック、そして時代の変遷とともにエレクトロニックな要素を取り混ぜ、独特の音を作り出してきました。その歌詞もまたユニークで、フランス、そしてベルリンらしい毒舌と反骨精神とアイロニーとブラックユーモア、そして可愛らしさが根底にあり、フランス語アクセントのドイツ語、英語、フランス語を融合させています。そのキッチュでポップでパンキーな世界は日本人にも気に入る人が多くてもおかしくありません。

 

また、ミュージシャン、プロデューサーであっただけではなく、DJやラジオプレゼンターとしても素晴らしく、インパクトの強いフランス語アクセントのドイツ語にはファンも多いようです。彼女の番組を聴いていると、日本のガレージバンド(特にガールズバンド)の曲も耳にすることがあり、どうやら日本に何度も行って、色々な音を発掘していたようです。

 

そんなFrançoise Cactusが2月17日、ベルリンで病気のために、57歳の若さで亡くなりました。彼女の音楽的功績をもう一度称える声は後を絶ちません。また、多くの仲間からの悔やみの声がいつもにはないほどに多く聞かれることから、人間としてもとても愛されていたことがうかがえます。

 

そんなマダム「サボテン」がRadioeinsというベルリンのラジオ局で毎月担当していた番組からのセレクションが同ラジオ局のサイトで公開されています(下のリンクから)。今日(2月23日)は、彼女の放送回が予定されていました。かけたい曲もしばらく前から用意していたけど、それもかなわず他界してしまった。そこで旦那さんが代理としてDJをするそう。心に沁みる回になりそうです。

 

合掌。

 

 

 

ジョン・レノンの命日 - 僕にとっての音楽の始まりの瞬間

何か衝撃的なことが起こった時のことはよく覚えている。びっくりしたことだけではなくて、その場の景色までもまさに脳裏に焼き付いている。「あの頃は何歳で、どんなことをしていたか」とかいう抽象的なことではなくてむしろ、どこの部屋で何時ごろそのニュースを聞いたとかいう、具体的に過ぎて、とても本質的とは言えないことを。

 

部屋に帰ったときにはもう夕方で、光はほんの少し赤くて薄暗かった。朝は急いで出たこともあり布団は敷きっぱなしだった。いつものようにラジオをつけると、「フレディ・マーキュリーが死去した」というニュースが聞こえてきた。布団のことよりは、あの頃は何歳だったかのほうがずっと大切だろう。けれども、自分の年齢より、部屋の様子のことの方をよく覚えている。今こうして思い返すと、マーキュリーがエイズを患っていることを公表してわずか数日後に亡くなったのだったとかいったことも思い出されてくる。

 

そしてそれをさらに遡り、1980年12月9日。まだ小学生だったころ、家の居間で両親がえらく驚いている。「ジョン・レノンが死んだ」、「なんで?」、「殺されたらしい」、「!!!」。僕はまだジョン・レノンが誰かは知らなかったが、どうやら両親が昔から知っているらしい人であることは感じられた。確か夕方7時ごろ、夕食の直前だった。その知らせはテレビからもたらされた。ラジオをつけていなかったので、やや遅れてのことだったと思う。レノンが殺されたのはアメリカ東海岸時間の夜遅く、日本ではもう翌日の朝。この凶報は朝刊にもまだ載っていなかっただろう。だから僕にとって、ジョン・レノンの命日はいまだに12月9日だ。あの瞬間のテーブルの配置や台所の位置、父はソファーに座っていて、母は台所から出てきて、テーブルの隣に立っていたこと。両親の驚きの表情。その部屋の照明は蛍光灯ではなく、もっと暖かい光だった。いまだにはっきりと具体的なことまで頭の中に描ける。

 

僕にとっては知らない人の死に過ぎないので、その場ですぐに頭から離れていったのに、今でもその時の光景は写真のように頭に張り付いている。

 

殺されたのが誰だったのかを知らなかったことは、僕にとって幸いだったかもしれない。その1年後にそんなことが起こっていたら、11歳の子供は大きな精神的外傷をこうむって、立ち直るのに長い時間を要したかもしれない。

 

1981年の3月ごろ、父親がビートルズのファーストアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」を買ってきた。当時たしかチューインガムか何かのCMで同曲が使われていて、僕はそれをとても気に入っていた。その様子を見て、昔は同時代にビートルズのカバーもしていた(趣味の)ミュージシャンである父が、一度こいつにビートルズを聴かせてみても面白いと思ったのかもしれない。

 

その後はビートルズに急速にはまり込み、両親がビートルズ好きであったことも幸いにして、次から次へとアルバムを買ってもらい、狂ったように聴き入った。11歳のビートルマニア。それ以来、その状態は続いている。ビートルズなくして僕の人生は無いし、自分の死の瞬間にはどうにかして彼らの曲を聴いていたいと願っている。

 

僕はミュージシャンではないが、音楽を聴くことは自分の人生においてかけがえのないものであり、もしかすると衣食住よりも大切かもしれない。そういう意味において僕の「音楽人生」が始まったのは、1980年12月9日夕方、あの居間でだったと言えるかもしれないし、それならば、誕生の瞬間は1枚の写真のようにして脳裏に焼き付いている。

ザーレ・ウンシュトルートのワイン

コロナ蝸のヨーロッパ、国外旅行はリスキーということで(行った先がコロナ感染危険地域に指定されると帰国後に自主隔離しなくてはいけなくなる)、ベルリンからザクセン・アンハルト州へ旅行。

 

はっきり言って、あまり人気があるというか、脚光を浴びるような地方ではなく、かなり地味な存在です。けどあえてそうしたところに行ってみました。そうしたあまり知られていない町や地方に魅力があるのもドイツのいいところ。ドイツの地方都市にはまだそれぞれの個性というか味が残っています。

 

今回選んだのは、ナウムブルク。ドイツ人でさえこの町がどこにあるのかすぐに言えない人も多いのではないでしょうか。でも、世界遺産はあります。大聖堂がそう。そしてそこにある「ウタ」の彫像は中世美人の極みともされています。実際に見たけど、確かに現在の視点からしても奇麗だし、何より生々しかったな。

 

大戦で旧市街が破壊されなかったというかなり稀有な町です。だから、レプリカではない昔からの建物が残っている。しかし、あまり金巡りのよい地方ではないからか、補修されていない外壁も目立ちます。けど、あくまで観光客にとっては「いい味出してる」と言えないこともない。数時間ちんたら散歩するにはちょうど良い雰囲気、サイズです。

 

そして、この町に来たからには、周囲に位置するワイン生産地に赴かない手はありません。ザーレ・ウンシュトルートという、北緯51度のほぼ北限の産地です。ザーレ川、ウンシュトルート川の反射光を受ける斜面には美しいブドウ畑があって、川とブドウ畑の間の田舎道を散歩できる。ところどころで生産者が軒先でワインを飲ませてくれます。1杯(たぶん200ml)3~4ユーロ。あとは、フライブルク(Freyburg)では生産者協会のワインセラー見学なんていうのもやっておりました。「こんなのどこも同じだろう」と思うなかれ、それぞれ違いがあって面白いのです。

 

もちろんご当地ワインを色々と飲んでみました。ミネラル感にあふれていて、酸味がフレッシュなのが多くのドイツワインの特徴でもあるのですが、今回飲んだザーレ・ウンシュトルート産のワインには共通して、渋みという要素が色濃く加わっていました。そして、果実感も桃系ではなく、むしろ青リンゴっぽい。つまり、ねっとり系ではなくさわやか系。どんな食べ物があうかと想像すると、虹鱒などでしょうか。川魚に限らず、白身魚にはよくあいそうです。両ブルグンダー(ピノ)、リースリング、ショイレーベ、グートエーデル(シャスラ)など、濃厚ではないのに渋いという面白いワインでした。フランスなどのワインを飲みなれた(あるいは崇拝している)人には最初は違和感がある(あるいは物足りない)かもしれませんが、好奇心が強くてオープンなワイン好きの人たちにはぜひおすすめしたいです。それにしても、渋みが効いて辛口とは土地の人々の気質を表しているようだ…。

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