『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その92 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いじゃない先走りコラム その92

第22回 義時の生きる道

今回は、源範頼について その2 

 

 曽我兄弟の仇討ちは、その1で書いたような流れだが、『鏡』には記されていない出来事が、ほぼ同時に起こっていた。

 

 『保暦間記(ほうりゃくかんき)』という歴史書がある。作者不詳だが、保元の乱から暦応二(1339)年の後醍醐天皇の死までを記した書。保元と暦応の間の記録ということで、その年号を1文字ずつをとって『保暦』。ここに範頼誅殺に関する記事がある。

 

源範頼の墓~伊豆:修禅寺~

(範頼の墓:伊豆修禅寺)

 

 曽我兄弟の仇討ち事件が起こった時、現場は大混乱し、鎌倉殿(頼朝:大泉洋)も討たれたという情報が鎌倉に届いた。政子(小池栄子)は大いに動揺し、悲嘆に暮れていた。その時、鎌倉で留守を守っていた範頼が、「私がおりますから、ご心配には及びません」と言った。たとえ頼朝が打たれても、同じ源氏嫡流の血筋の私がいるから大丈夫とも受け取れる言葉。政子を慰めようとしたのかもしれないが、この事が鎌倉殿への謀反の意思があると捉えられ、範頼は誅殺されたというのだ。『保暦間記』は、頼朝がしたことは、人の道に背いた酷い行いだと非難している。

 

 同年8月2日、範頼は起請文を頼朝に献じた。範頼は本当に謀反を企んでいるのか、その真偽を頼朝が尋ねた結果だと『鏡』は伝える。その中で範頼は、鎌倉殿の子々孫々まで忠義を尽くすこと、自らの子孫にもそのことを言い伝えること、さらに万が一にも謀反のような事が起きた時には、神罰をも厭わないことが書かれていた。頼朝は、その起請文の内容ではなく、文末に記された『三河守源範頼』の文言にイチャモンをつけた。「源」の文字を使うのは、源氏一族という意識が強いのであろうが、それは自惚れに過ぎると。つまり、頼朝からすれば、同じ源氏一門であっても、自分の家来つまり御家人だということ。さらに、それゆえにこの起請文の価値がなきに等しいものになっているとまで言った。側にいた大江広元(栗原英夫)に、自分の意志を範頼の使いに言い伝えよと命じた。頼朝の思いがけない怒りに、範頼は狼狽した。

 

吉見御所(伝・源範頼館跡)

(範頼の館跡と伝わる吉見御所:息障院:埼玉県吉見町大字御所)

 

 そして、同10日、早朝4時ごろ、鎌倉中が大騒ぎになった。御家人たちは武具を整えて御所に走った。なんと範頼の家来当麻太郎(たいまのたろう)が、頼朝の寝所の床下に隠れていたことが露見したのだ。まだ眠りについていなかった頼朝が気配に気づき、近習たちをそっと呼び寄せ、太郎を捕らえた。夜が明けてから尋問された太郎は、「起請文(誓約書)を範頼様が出したのに、一向に沙汰がないので、範頼様は自分の起請文の良し悪しを思い悩んでいる。さらに、内密に鎌倉殿に会いたいとまで言い出したので、様子を探るために私が来たのです。範頼様に陰謀の企てなどありません。」と言った。太郎が潜入したことについては、範頼に確認したが、知らなかったということだった。しかし、(寝所の床下に潜むなど)尋常なことではないので、それまでの範頼に対する頼朝の疑念が再燃した。また、潜んでいた当麻太郎は、範頼が頼りにしている勇猛な武士で、武術に優れた武士としても名を知られている者なので、大いに怪しいと思った頼朝は、太郎のお詫びの言葉を素直に受け入れる事ができなかった。結果として、この事件は、頼朝の範頼への不信感をさらに煽った形となった。

 

 同17日、範頼は鎌倉から伊豆へ送られることになった。いつ鎌倉に戻れるのかが決まっていなかったので、まるで流人のようだったと『鏡』は記す。寝所に忍び込んだ当麻太郎は、誅殺されるところだったが、娘が病気になったということで薩摩に流罪となった。

 

伊豆の小京都"修善寺の名刹「修禅寺」!意外と知らない見どころとは? | 静岡県 | トラベルjp 旅行ガイド

(範頼が自刃した地とも言われる修禅寺:修禅寺では二代将軍頼家も幽閉後に謀殺された:静岡県伊豆市修善寺)

 

 同18日、範頼の家来たちが宿所に立てこもっているとの情報があり、結城七郎朝光、梶原景時(中村獅童)、仁田忠常(高岸宏行)らによって鎮圧された。同20日、曽我十郎祐成(田邊和也)の兄弟京小次郎が範頼の一件に関わっていたとして処刑された(連座)。

 

 これ以降、『鏡』に範頼は出てこない。また、『鏡』では、範頼が伊豆に送られてからどうなったのかは書かれていない。