『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その71
第16回 伝説の幕開け
今回は、義仲(青木崇高)四天王の一人今井兼平(町田悠宇)について
義仲には、後に義仲四天王と呼ばれる猛将四人がいた。樋口兼光、今井兼平、根井(ねのい)行親、楯親忠の四人だ。中でも壮絶な最期を遂げるのが今井兼平だ。兼平は幼少期から義仲とともに成長した。兼平の父中原兼遠が義仲の乳母父だったからである。以前にも書いたが、この時代、『乳母』繋がりは親子・兄弟にも等しい間柄だったので、兼平は兄樋口兼光とともにやがて義仲側近となっていく。
義仲は、近江粟津で範頼(迫田孝也)・義経(菅田将暉)軍に敗れ、今井兼平と二人だけになる。兼平の勧めで近くの松原で自害しようとした瞬間、額のど真ん中に矢を受け絶命。今話では、この後のことは描かれていない。
義仲を射殺したのは、石田次郎為久。為久は、現在の神奈川県伊勢原市あたりを領した武将。『鏡』では、1184(寿永三)年1月20日、義仲を討ち取った場面でしか出てこない武将。小田急線に「愛甲石田」という駅があり、この辺りが為久の所領だったと思われる。
閑話休題
実はこの時、義仲は深田(水捌けの悪い深い田)に馬を乗り入れてしまい、身動きが取れなくなっていた。そこを為久に射られ、さらにその家人によって首を取られた。その首は、八坂の塔で有名な京都法観寺に埋葬され、義仲首塚とか朝日塚と呼ばれている。義仲は朝日将軍とも呼ばれていたからである。
(義仲首塚:法観寺:京都市東山区清水八坂上町)
義仲討死の直前、兼平はただ一騎で、五十騎ほどの敵陣に駆け入って、矢を射り、刀を抜いて文字通り孤軍奮闘していた。為久の「木曽殿討ち取ったり!」の声を聞いた兼平は、「こうなっては誰かを庇って戦うこともない。見よ、東国の方々、日本一の剛の者の自害の手本」と言って、太刀の先を口に入れ、馬から逆さまに飛び落ちて、自らの刀に貫かれて死んだ。『平家物語』が描く兼平の壮絶な最期だ。
(今井兼平の墓:滋賀県大津市晴嵐)
残りの四天王について。
樋口兼光は、義仲と弟兼平の死の翌日、それを知り、京に戻ろうとするが義経軍に捕われ、後に斬首となったが、死の直前、自分の首を主君義仲の首の隣に置いてほしいという願いは叶えられた。
(樋口兼光:徳音寺:長野県木曽郡木曽町)
根井行親は、宇治川の戦いで義経軍に敗れ、討死。
(根井行親:本朝英雄鏡 歌川芳員:江戸時代末期)
楯親忠。根井行親の六男。父とともに宇治川の戦いに参戦し、討死。
(右:楯親忠、左:樋口光盛:歌川国芳:江戸時代末期)