『鎌倉殿の十三人』~後追いコラム その54 | nettyzeroのブログ

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『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その54

第12回 亀の前事件

 

今回は文官として招かれた3人の都下りの貴族たちについて。(その1)

 

 まずは大江広元(栗原英夫)。

 

2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 on Twitter: "/ #大江広元(おおえ・ひろもと) #栗原英雄 \  冷静にして冷徹。極めて有能な官僚。大きなチャンスを求めて鎌倉に下向し、源頼朝の信頼を得て政務を取り仕切る。のちの鎌倉幕府行政長官。 #鎌倉殿の13人  https://t.co ...

 

 源頼朝(大泉洋)の側近として手腕を発揮した大江広元。実は、鎌倉に下ってきた時の名は「中原広元」だった。

 

 広元は頼朝の4代前の八幡太郎義家に兵学などを伝授した学者大江匡房(おおえのまさふさ)の孫娘と中原広季(ひろすえ)との間に生まれた。母方の大江家は平安京に遷都した桓武天皇から『大枝(おおえ)』の賜姓を受けた家。後、清和天皇の時代に「枝の幹より大なるは、子孫繁栄の兆ならず」(枝は幹より太くなることはない。枝では子孫繁栄に繋がらない)ということで天皇に『大江』に改めたいと許可を願い出て認められた。

 

 以降大江家は、代々文才に恵まれ、文章博士(もんじょうはかせ)や大学寮など学問の家として発展する。学問の神様菅原道真の”菅家(かんけ)”と並び”江家(ごうけ)”と言われた。

 

 広元の父方の中原家は、10世紀後半に時の円融(えんゆう)天皇から中原の賜姓を受けた。中原家は明経道(みょうぎょうどう:儒学の研究)を家業とする系統、明法道(みょうぼうどう:律令の研究)を家業と知る系統、蔵人所(くろうどどころ:天皇の秘書官)の出納を家業とする3つの系統に分かれる。(※広元の出自に関しては諸説あり)

 

 いわば大江広元の両親一族は、法律や儒学の専門家だらけ。そんな環境の中で広元は育った。1173(承安三)年26歳の時、従五位下(じゅごいのげ)に叙され、貴族となる。ちなみに広元の生まれ年に関しては諸説あるが、『鏡』1225(嘉禄元)年6月10日条に78歳で没したという記事から逆算した。これが正しいとすれば、広元は頼朝の一歳年下となる。

 

 1184(元暦元)年6月1日、以前から鎌倉にいた平頼盛(清盛の異母弟:母は平治の乱後に頼朝の助命を清盛に嘆願した池禅尼)が都に帰るということで盛大なパーティーが行われた。その席上で、お土産の一つ砂金一袋を渡す役として広元が初めて『鏡』に登場する。

 

 同年10月6日、公文所が創設され、広元はその別当(長官)となる。以後、幕府政治を支える重鎮として頼朝・頼家・実朝三代の将軍に仕える事となる。

 

鎌倉時代についてわかりやすく【1】与える者と報いる者、武士政権の成立 – 日本史ゆるり

 

 1216(健保四)年閏6月、広元は中原姓から大江姓へ変わることを天皇に願い出て許された。衰退する大江家を盛り返したいというのがその目的だった。広元は死の10年前に大江広元となった。

参考文献:奥富敬之著『日本家系・系図大辞典』(2008年)