『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その29
第7回 敵か、あるいは
平清盛の最期 その2
病に臥した清盛の様子を『平家物語』の原文と共にその1で見た。平家一門は、上を下への大騒ぎとなった。あの手この手を尽くすも一向に効果なく、二位殿(平時子:清盛の正妻)は清盛の死を覚悟した。
近寄り難い熱さを我慢して清盛の枕元に来た二位殿は、「何か言い残すことは」と聞いた。
息も絶え絶えの清盛は、「討ち取った頼朝の首が見られなかったのが残念だ。自分が死んだ後は供養などはせず、必ず頼朝の首を討ち取り、墓前に供えよ。それが一番の供養だ。」と言い、治療の甲斐なく『悶絶躄地(もんぜつびゃくち)』(悶え苦しんで転げ回って這いずり回って)して、『あつち死(じに)』した。熱い熱いと言って死んでいったから『あつち死』。
(『清盛炎症病之図』月岡芳年 18831年 閻魔庁から清盛に迎えが来た様子を描く)
清盛の死因が何だったかは、諸説ある。有力だったのは、マラリア。しかし、マラリアは蚊が媒介する病気。症状としては似ているが、清盛が死んだ閏2月(現在の暦では3月)にマラリアになるほど蚊がブンブン飛んでいたとは考えにくい。
では、何が死因か。
『玉葉(玉葉)』という日記がある。摂政・関白を歴任し、鎌倉幕府とも密接な関係にあった藤原兼実の日記で、信頼性の高い資料である。ここには清盛が頭風(頭痛)を病んでいたとあり、このことから、髄膜炎や脳卒中など脳血管障害を原因とする説もある。
(『玉葉』藤原兼実著。朱書きは子の良平と言われる。現存最古の写本。宮内庁蔵。)
また、季節的にインフルエンザではないかという説も。さらに、普通の風邪から肺炎を引き起こし、高熱呼吸困難となった等々。まさに諸説紛紛。
そんな中で面白い論文を見つけた。その名も『清盛の死因』。東北学院大学大学院文学科赤谷正樹氏の論文。『日本医史学雑誌』第62巻第1号(2016年)に掲載された論文だ。
それによると清盛は溶連菌(溶血性連鎖球菌)感染症による電撃性猩紅熱(しょうこうねつ)が死因だという。清盛の腹心とも言える藤原邦綱が同時期に同様の症状で死んでいることに着目。しかも、邦綱の病状については前出の『玉葉』の中に詳細に書かれていたので、それらを分析した結果、溶連菌感染症の可能性が高く、清盛と共に政局運営で密談を重ねていた邦綱からの飛沫で清盛が感染したと結論づけた。なかなか面白い。
はたして三谷幸喜は、清盛の死をどのように描くのか?楽しみーー!