『鎌倉殿の13人』~後追いコラム その6
今回はドラマの主人公北条義時。源頼朝が平家打倒の挙兵をしたのが、治承4(1180)年。義時は18歳であった。
実はこれ以前の義時については不詳だ。母は伊東祐親の娘で、同腹の兄宗時、姉政子、妹実衣(阿波局)がいる。どのような前半生かわからないということは、ドラマの脚本家としては、描きたい放題と言える。ただ、彼の人となりのヒントとなるエピソードがある。
後の話になるが頼朝は義時のことを
江間(義時)は穏便の存念あり(『吾妻鏡』寿永元(1182)年11月14日条)
と評している。つまり、いつも穏やかな対応で事を済ませる人物だと。
実は頼朝はなんの脈絡もなく、このように評したのではない。
前置きが少し長くなるが、『吾妻鏡』の記述である事件の顛末を見てみたい。
※ここからはドラマのネタバレを含みます。多分。ご注意を!
11月10日、時政の後妻りく(牧の方:宮沢りえ)が頼朝は亀の前(江口のりこ)という女性と浮気していると政子にチクった。伏見冠者(ふしみのかじゃ)藤原広綱(配役不明)という頼朝の右筆(記録係)の家に匿われていることまで。政子は8月12日、比企能員(ひきよしかず:佐藤二朗)の館で後の2代将軍となる頼家を出産し、若君共々御所に戻ったばかり。源氏の嫡流頼朝の血を引く御曹司を自分が産んだ誇らしさと幸せに満ち溢れる中、また自分が産みの苦しみを味わっている中、夫頼朝は愛妾亀の前とイチャイチャしてるとチクられたのだ。
怒り心頭に達し烈火の如く怒った政子は、りくの兄(父という説あり)牧宗親(山崎一)に命じ、飯島(逗子)にあった広綱の家を破却させた。これを『うわなりうち(後妻打ち)』という。この頃、『うわなり』とは愛妾(あいしょう)の事を指す。後の時代になると、先妻と離婚し、後添えとして迎えた女性のことを指すようになる。
襲われた亀の前と広綱は、命からがら逃げ出し、鎧擦(あぶみすり:葉山マリーナ近く)の大多和義久(配役不明)の館に逃げ込んだ。
これが事件の全てではないが、字数が尽きたので『その7』に続く。