ボストン訪問記
いま米国に来ています。
ブラジル事業の視察の帰り、トランジットで訪れた米国東海岸を訪れることにしました。
どこの国にいっても僕がまずすることは、その国の最難関大学に行くことです。
フィリピンではフィリピン大学のキャンパスはほぼ全て行き尽くし、ブラジルではサンパウロ大学にも行ってきました。
だから米国に来た僕が真っ先に向かったのは、ボストンにあるハーバード、MIT、ボストン大学といった学校です。キャンパスを散策し、また、そこで学んでいる友人たちとも話をしました。
そこでうけた一番の印象は、「世界中から優秀そうな奴らが集まっている!!」というもの。
当たり前といえば当たり前なのですが、
いわゆる白人・黒人・ヒスパニックのほか、東アジア系、南アジア系と思しき人などがたくさんいます。
僕はすっかりうれしくなりました。
まだ2日間しかいない中の結論ではありますが、米国とは、世界中から超優秀な人材が集まるように仕組み化された場所かもしれないと思うようになりました。
まずその「仕組み」ですが、ベースは多様性を認め合うことにあるようです。
友人たちは言っていました。
「小学生のころから多様性の教育が始まる」
「というか小学生のころはそれしかしていない印象。算数とか小学3年生でもかけ算すら怪しい。それ以前に、価値観認めあう教育をしている」
「また、ビジネススクールでも、4割は外国人留学生を集めるようにしている」
「また授業中にネームプレートを自分の机の前に掲げるが、そこには人種差別反対とかメッセージを発信する人が多い」
「この国ではフェアネスが大事。多様性を認めるにはそれしかない」
そして人々が多様な分だけ、競争させるときはわかりやすい物差しが必要なようです。
「こちらの学生は日本の大学生よりも成績をすごい気にする」
「高校以前も、特にインド系は、いい大学にはいることから逆算して高校生活を過ごさせている」
「ビジネススクールでも競争が大事で、下位5%は退学させられる」
「研究者になると、科研費みたいな予算をとってこれるかどうかで決まる。最悪、研究室を閉じなければいけないことも」
米国でチップが要求されるのも、多様なお客様からのNPSを都度計るうえで最良の方法のように僕には見受けられました。
分子生物学を研究している友人は言っていました。
「日本の方がバイオは研究予算は潤沢にある印象」
「また、実験とか日本人の方が丁寧で信頼はおける」
「日本の研究室では徹夜は多いが、こちらではみんな5時とか8時とかには家に帰る。」
「しかしそれにしては、世間で騒がれているほど日本はバイオに強くないのではないかと現場にいると危機感を感じる。日本から出てくる発見はイマイチ、という印象がある。」
「全体的に米国の方が生産性は高いように思う。」
「おそらくその違いは、科研費のような研究予算の取り方。米国では成果が出そうだという予備実験をしてからとる。日本では予備実験なしにとれる場合もある。科研費を取りに行く段階から成果を追求しに行っているぶんだけ、米国の方が生産性が高いのではないか?」
多様性を認め、しかし物差しはシンプルで、その分、徹底的に成果を求められる競争が待っている。
能力が高いと自負する人々が米国に集う理由が、僕にはわかるように思いました。
しかし一方で、競争の「勝者」は一握り。
「勝者」とは言い切れない人の方が、人口比では圧倒的に多いように見受けられました。
そしてその結果、現場にしわ寄せがきているように感じました。
例えば同じスターバックスでも、米国よりも日本の方がはるかにホスピタリティを感じます。
また、ボストンでレンタサイクルを借りたのですが、それを盗まれ、深夜23時に警察署に行ったところ、うんざりしたような警察官に舌打ちされたり机を叩かれたりしながら応対されたのも今となってはとてもいい思い出です。
もちろん、警察官やスタバの定員が「敗者」だと僕は思っているわけではありません。
現場で自分の仕事に誇りを持っている人の割合が、米国よりも日本の方が多いように感じられた、というだけです。
そして一握りの「勝者」と、それ以外の人たち。
その格差は、米国において富める人にすら悪影響を与えているようです。
保健行政を専攻している友人は言っていました。
「日本は国民皆保険。米国でもそれを目指し、オバマケアがようやくスタートした」
「背景としては、富める人の寿命が長く貧しい人の寿命が短い国では、富める人ですら寿命がそうじゃない国に比べて短くなっちゃうと、わかったことがある」
どうしてなのか、と僕は聞きました。すると、
「あなたはお金がないから治療を受けられません、早く死ぬしかありません、となってしまう国は、そりゃぁギスギスするでしょ」
そのような話の中、日本の良さは何か、と別の友人に聞きました。
彼は真っ先に言いました。
「日本は・・・メシがうまい!」
これは冗談ではなく、とても本質的な発言だと僕には思いました。
というのも、美味しいご飯を提供するには、一握りの天才では不十分だからです。
農家が丹精込めてつくった野菜や肉を、鮮度を失わないよう流通業者が運び、目利きができるレストランが買って調理し、味の違いのわかる消費者が食べる。これらプロセスのどこが欠けても、おいしいご飯を手ごろな価格で買える国にはなりません。
異文化研修では有名な話ですが、日本は世界の中でも極端に合意志向の強い国と言われています。
合意志向の反対はトップダウンです。
例えば「稟議」は日本にしかない仕組みといわれます。
トップが決断した方向に皆従うわけではなく、一人一人が納得し合意しないと組織が動かない。そんな傾向が他国に比べて強いといわれています。
なので日本は悪く言えば動きの遅い国ではありますが、良く言えば、一人一人の気持ちが大事にされる国であるかもしれません。(そしてそれもあり、東洋の中では珍しく、民主主義が真っ先に浸透したのかもしれません。)
日本人を含め世界の人々が働きたいとより思える国に日本をしていかないと、少子高齢化の進む日本の将来は厳しくなります。
しかし米国のやり方を真似ても勝ち目はないように感じます。
日本ならではのやり方が何かあるのではないかと思っています。
そして僕がレアジョブという企業を経営する中で、それを人々が見つけるお手伝いがしたいなと思っています。
もしかしたらインバウンド、訪日外国人売上を上げるための英語教育サービスってのは、そういうことなのかもしれません。
また、僕のボストンで会った日本人のほとんどは、大学までを日本で過ごし、院やそれ以上になってからアメリカに来た、という人たちでした。
アメリカに来て良かったと思うか、僕は彼らに聞きました。
彼らは異口同音に答えました。「来て良かった」「しかし大学4年間から来れていればもっとよかった」
なぜ大学4年間からなのかを聞きました。
例えばHBS、ハーバード・ビジネス・スクールの友人は言いました。
「HBSの授業は、いわばお笑い芸人のひな壇みたいなもの。教授からの問いかけに対し面白いことを言えた奴が好成績を収める」
「だからここに集まるアメリカ人、生徒の6割のアメリカ人は、吉本の芸人クラスのコミュニケーションの達人。」
「そして残り4割の留学生も、大学とか高校で一度は米国に来ている」
「でも僕たち日本人は、日本で日本語ですらそういう訓練を受けていない。それをいきなり英語で多国籍でやれと言われてもハードルが高すぎる」
いわゆる自然科学を研究している友人も同じ意見でした。
多様性を認め合う中でのチームワーク。
意見を主張し合いながらお互いのよいところを活かし合う。
成果を求めながら徹底的にフェアに徹する。
そういう訓練を、
「もっと早くから受けたかった」「そしたらもっと自分は違っていたかも」
とのことでした。
じゃあ中学や高校から来たかったのか、と尋ねたところ、みなの答えは一緒でした。
「いや、大学からで十分」「高校生活は日本で良かった」
僕が現地で会った日本人の友人の多くは、僕と同じ中高の出身なのでちょっと回答に偏りがあるかもしれません。
しかし、なぜ母校の中高が良かったのかを尋ねたところ、彼らの答えはまたも共通していました。
「そりゃあさぁ、あの学校って、物差し一つじゃなかったじゃん」
「勉強やる奴も、部活やる奴も、運動会頑張る奴も、委員会とか色々いたじゃん。
「頑張る人がカッコ悪いとか、そういう風潮、なかったじゃん」
「だから、加藤くんを含めて、いろんなユニークな人が出てきているじゃん」
「そういう環境って、日本にも世界にも、なかなかないんだよ」
僕は仕事柄、最良の教育とは何かを常に考え続けています。
もしかしたら、答えはシンプルなのかもしれません。
何かに夢中になれる。何かに本気になれる。
それでもう十分に、最良の教育なのかもしれません。
そんなことを、ボストンからニューヨークに向かうアムトラックに揺られながら考えています。
(以上、まだ米国に2日しかいない中の考えであり、思い込みや事実誤認があるかもしれません。)
ブラジル事業の視察の帰り、トランジットで訪れた米国東海岸を訪れることにしました。
どこの国にいっても僕がまずすることは、その国の最難関大学に行くことです。
フィリピンではフィリピン大学のキャンパスはほぼ全て行き尽くし、ブラジルではサンパウロ大学にも行ってきました。
だから米国に来た僕が真っ先に向かったのは、ボストンにあるハーバード、MIT、ボストン大学といった学校です。キャンパスを散策し、また、そこで学んでいる友人たちとも話をしました。
そこでうけた一番の印象は、「世界中から優秀そうな奴らが集まっている!!」というもの。
当たり前といえば当たり前なのですが、
いわゆる白人・黒人・ヒスパニックのほか、東アジア系、南アジア系と思しき人などがたくさんいます。
僕はすっかりうれしくなりました。
まだ2日間しかいない中の結論ではありますが、米国とは、世界中から超優秀な人材が集まるように仕組み化された場所かもしれないと思うようになりました。
まずその「仕組み」ですが、ベースは多様性を認め合うことにあるようです。
友人たちは言っていました。
「小学生のころから多様性の教育が始まる」
「というか小学生のころはそれしかしていない印象。算数とか小学3年生でもかけ算すら怪しい。それ以前に、価値観認めあう教育をしている」
「また、ビジネススクールでも、4割は外国人留学生を集めるようにしている」
「また授業中にネームプレートを自分の机の前に掲げるが、そこには人種差別反対とかメッセージを発信する人が多い」
「この国ではフェアネスが大事。多様性を認めるにはそれしかない」
そして人々が多様な分だけ、競争させるときはわかりやすい物差しが必要なようです。
「こちらの学生は日本の大学生よりも成績をすごい気にする」
「高校以前も、特にインド系は、いい大学にはいることから逆算して高校生活を過ごさせている」
「ビジネススクールでも競争が大事で、下位5%は退学させられる」
「研究者になると、科研費みたいな予算をとってこれるかどうかで決まる。最悪、研究室を閉じなければいけないことも」
米国でチップが要求されるのも、多様なお客様からのNPSを都度計るうえで最良の方法のように僕には見受けられました。
分子生物学を研究している友人は言っていました。
「日本の方がバイオは研究予算は潤沢にある印象」
「また、実験とか日本人の方が丁寧で信頼はおける」
「日本の研究室では徹夜は多いが、こちらではみんな5時とか8時とかには家に帰る。」
「しかしそれにしては、世間で騒がれているほど日本はバイオに強くないのではないかと現場にいると危機感を感じる。日本から出てくる発見はイマイチ、という印象がある。」
「全体的に米国の方が生産性は高いように思う。」
「おそらくその違いは、科研費のような研究予算の取り方。米国では成果が出そうだという予備実験をしてからとる。日本では予備実験なしにとれる場合もある。科研費を取りに行く段階から成果を追求しに行っているぶんだけ、米国の方が生産性が高いのではないか?」
多様性を認め、しかし物差しはシンプルで、その分、徹底的に成果を求められる競争が待っている。
能力が高いと自負する人々が米国に集う理由が、僕にはわかるように思いました。
しかし一方で、競争の「勝者」は一握り。
「勝者」とは言い切れない人の方が、人口比では圧倒的に多いように見受けられました。
そしてその結果、現場にしわ寄せがきているように感じました。
例えば同じスターバックスでも、米国よりも日本の方がはるかにホスピタリティを感じます。
また、ボストンでレンタサイクルを借りたのですが、それを盗まれ、深夜23時に警察署に行ったところ、うんざりしたような警察官に舌打ちされたり机を叩かれたりしながら応対されたのも今となってはとてもいい思い出です。
もちろん、警察官やスタバの定員が「敗者」だと僕は思っているわけではありません。
現場で自分の仕事に誇りを持っている人の割合が、米国よりも日本の方が多いように感じられた、というだけです。
そして一握りの「勝者」と、それ以外の人たち。
その格差は、米国において富める人にすら悪影響を与えているようです。
保健行政を専攻している友人は言っていました。
「日本は国民皆保険。米国でもそれを目指し、オバマケアがようやくスタートした」
「背景としては、富める人の寿命が長く貧しい人の寿命が短い国では、富める人ですら寿命がそうじゃない国に比べて短くなっちゃうと、わかったことがある」
どうしてなのか、と僕は聞きました。すると、
「あなたはお金がないから治療を受けられません、早く死ぬしかありません、となってしまう国は、そりゃぁギスギスするでしょ」
そのような話の中、日本の良さは何か、と別の友人に聞きました。
彼は真っ先に言いました。
「日本は・・・メシがうまい!」
これは冗談ではなく、とても本質的な発言だと僕には思いました。
というのも、美味しいご飯を提供するには、一握りの天才では不十分だからです。
農家が丹精込めてつくった野菜や肉を、鮮度を失わないよう流通業者が運び、目利きができるレストランが買って調理し、味の違いのわかる消費者が食べる。これらプロセスのどこが欠けても、おいしいご飯を手ごろな価格で買える国にはなりません。
異文化研修では有名な話ですが、日本は世界の中でも極端に合意志向の強い国と言われています。
合意志向の反対はトップダウンです。
例えば「稟議」は日本にしかない仕組みといわれます。
トップが決断した方向に皆従うわけではなく、一人一人が納得し合意しないと組織が動かない。そんな傾向が他国に比べて強いといわれています。
なので日本は悪く言えば動きの遅い国ではありますが、良く言えば、一人一人の気持ちが大事にされる国であるかもしれません。(そしてそれもあり、東洋の中では珍しく、民主主義が真っ先に浸透したのかもしれません。)
日本人を含め世界の人々が働きたいとより思える国に日本をしていかないと、少子高齢化の進む日本の将来は厳しくなります。
しかし米国のやり方を真似ても勝ち目はないように感じます。
日本ならではのやり方が何かあるのではないかと思っています。
そして僕がレアジョブという企業を経営する中で、それを人々が見つけるお手伝いがしたいなと思っています。
もしかしたらインバウンド、訪日外国人売上を上げるための英語教育サービスってのは、そういうことなのかもしれません。
また、僕のボストンで会った日本人のほとんどは、大学までを日本で過ごし、院やそれ以上になってからアメリカに来た、という人たちでした。
アメリカに来て良かったと思うか、僕は彼らに聞きました。
彼らは異口同音に答えました。「来て良かった」「しかし大学4年間から来れていればもっとよかった」
なぜ大学4年間からなのかを聞きました。
例えばHBS、ハーバード・ビジネス・スクールの友人は言いました。
「HBSの授業は、いわばお笑い芸人のひな壇みたいなもの。教授からの問いかけに対し面白いことを言えた奴が好成績を収める」
「だからここに集まるアメリカ人、生徒の6割のアメリカ人は、吉本の芸人クラスのコミュニケーションの達人。」
「そして残り4割の留学生も、大学とか高校で一度は米国に来ている」
「でも僕たち日本人は、日本で日本語ですらそういう訓練を受けていない。それをいきなり英語で多国籍でやれと言われてもハードルが高すぎる」
いわゆる自然科学を研究している友人も同じ意見でした。
多様性を認め合う中でのチームワーク。
意見を主張し合いながらお互いのよいところを活かし合う。
成果を求めながら徹底的にフェアに徹する。
そういう訓練を、
「もっと早くから受けたかった」「そしたらもっと自分は違っていたかも」
とのことでした。
じゃあ中学や高校から来たかったのか、と尋ねたところ、みなの答えは一緒でした。
「いや、大学からで十分」「高校生活は日本で良かった」
僕が現地で会った日本人の友人の多くは、僕と同じ中高の出身なのでちょっと回答に偏りがあるかもしれません。
しかし、なぜ母校の中高が良かったのかを尋ねたところ、彼らの答えはまたも共通していました。
「そりゃあさぁ、あの学校って、物差し一つじゃなかったじゃん」
「勉強やる奴も、部活やる奴も、運動会頑張る奴も、委員会とか色々いたじゃん。
「頑張る人がカッコ悪いとか、そういう風潮、なかったじゃん」
「だから、加藤くんを含めて、いろんなユニークな人が出てきているじゃん」
「そういう環境って、日本にも世界にも、なかなかないんだよ」
僕は仕事柄、最良の教育とは何かを常に考え続けています。
もしかしたら、答えはシンプルなのかもしれません。
何かに夢中になれる。何かに本気になれる。
それでもう十分に、最良の教育なのかもしれません。
そんなことを、ボストンからニューヨークに向かうアムトラックに揺られながら考えています。
(以上、まだ米国に2日しかいない中の考えであり、思い込みや事実誤認があるかもしれません。)