失敗すべきと思うときでさえ、失敗を恐れてしまうのはなぜか | フィリピンで働くシリアル・アントレプレナーの日記

失敗すべきと思うときでさえ、失敗を恐れてしまうのはなぜか

「失敗が怖くて、ついつい石橋を叩いて渡っちゃうんです。
 早く失敗しないと、いずれ大きな失敗をしてしまうのは、
 わかっているんですけどね。」

ベンチャー志望のとある方から、このように言われた。

ベンチャーは失敗してなんぼだ。
失敗する中で、仮説検証サイクルを早く回し、
正しい答えにいち早くたどりつく。
これがベンチャーだ。

ベンチャーとしての生き方を歩むべき人は社会でも限られている。
だが、ベンチャーとしての生き方を選んだ以上、首尾一貫して生きていかないと、
あとあと生きていきづらい。
というか、失敗を回避する位だったら、大企業など安定したポジションで首尾一貫した方がいい。

だから僕はこう尋ねた。

「今まで失敗したことがないから、失敗をむやみに恐れているんじゃない?
 失敗したことがないから失敗を回避し、失敗を回避するから失敗しない。
 そのような悪循環に陥っていない?」

その人はうんうんと深くうなずき、言った。

「そうなんです。僕、転び方を知らないから転べないんですよね。
 そもそも、加藤さんにとっての失敗、特にビジネス上の失敗とは何ですか?」

僕はうーんと考えてから、こう答えた。

「二つあると思う。

 一つは、倫理にもとること。
 倫理に外れた行動をとった方が、短期的には売上利益を確保しやすい。
 でもそれをやると中長期では必ず痛い目に合う。
 再起できない恐れすらある。
 だから倫理にもとることをやるのは僕にとって失敗。
 
 もう一つあるのは、仲間うちでケンカすること。
 会社が一つの方向性に向かっていく以上、意見が合わないのはしょうがないと思う。
 だけど意見が合わなくたって、お互いに理解し合うことはできるはず。
 結局一緒の会社ではやれないとわかっても、ハッピーエンドを迎えることはできる。
 でも仲間うちでケンカするのは、違うと思う。

 利益数値みたいな、外見的なものも確かに重要なんだけれど、
 僕にとっての失敗はそこではない。
 チャレンジする以上数値を出せないこともあるのが、資本主義経済だと思っているから。
 だから、倫理にもとることと仲間うちでケンカをすることは、
 資本主義経済というゲームのルール破りなんだ。
 そのルール破りをしてしまったら、僕にとってそれは失敗だと思う」

この答えは彼にも響いたようだった。
そのあと二人で、彼にとっての失敗の定義は何だろうか、話し合った。


日本の公的教育は、そこそこイケていると僕は思っている。
(特に、学校間競争のインセンティブがほとんどないなか、
 ここまでの質を保っているのは、卓越した現場力のおかげだと思っている)

しかしもし公的教育が今後改善すべきところがあるとしたら、
僕は下記3つだと思っている。

・転び方を覚えられること
・英語学習時間や英語テスト点数配分における、スピーキングの割合を社会におけるそれと同じにすること
・国語学習時間や国語テスト点数配分における、ライティング・スピーキングの割合を社会におけるそれと同じにすること

転び方を覚えられる教育を受けてこれなかったとしたら、
社会に出てから自分自身でなんとかするしかない。
そのときに大事なのは、転び方だ。
骨を折らない転び方は何なのか、自分なりの答えを見つけることがその第一歩だと思う。