反省なき鳩山・菅両首相 | 潜伏中なブログ

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【軍事情勢】「無能な働き者は銃殺刑に処せ」

2012/08/12 00:23

【軍事情勢】衆院本会議場で何やら話し込む菅直人前首相(左)と鳩山由紀夫元首相。ともに国政を困難に陥れたことへの自覚・反省はない=7月31日、国会(酒巻俊介撮影)

 東日本大震災に伴う東京電力福島第1原子力発電所事故を検証する国会の事故調査委員会が提出した最終報告書(7月)は、事故は「人災」だったと認定した。

 報告書では、菅直人首相(65)らが「危機管理意識の不足を露呈」「指揮命令系統を破壊」「組織運営のノウハウも十分にない」「政府の総力の結集がむしろ困難になるような対応を取った」と、切り捨てた。菅氏が事故翌日の昨年3月12日早朝、第1原発に乗り込んだ問題でもこう言い切った。

 「菅首相の現場視察は、現場の士気を鼓舞したというよりも、自己の『苛立ち』をぶつけることで、むしろ作業に当たる現場にプレッシャーを与えた」

 要するに「指揮官の重責に必要な心構えが不足していた」(報告書)のである。だのに、菅氏は昨年8月の退陣表明で「やるべきことはやってきた。残念ながら、十分国民に理解してもらえていない」と開き直った。その前後も、弁解ばかりが鼻に付いた。

 ■反省なき鳩山・菅両首相

 先代の鳩山由紀夫首相(65)も沖縄・普天間基地移設問題で「海外、最低でも県外」と放言し、日米両国の同盟関係を冷え込ませ、あまつさえ沖縄県人の不信を呼び覚ました。ところが後に「学べば学ぶにつけ(海兵隊で)抑止力を維持できるという思いに至った」と前言を撤回。今年になって再び「県外」を復活させた。垂直離着陸輸送機オスプレイの配備問題迷走は、鳩山氏の「迷走の連続」が底辺にある。ご本人は「トップの首相が大バカ者であれば、そんな国が持つわけがない」と強調している如く、自覚・反省はまったくない。

 自衛隊の最高指揮官でもある鳩山・菅両首相-的人物を「即、銃殺刑に処せ」と論じた名将が存在する。第一次世界大戦(1914~18年)で敗れたドイツ軍を再建し、第二次大戦(39~45年)における電撃戦を準備した独軍の頭脳ハンス・フォン・ゼークト上級大将(1866~1936年)。ゼークト将軍は、指揮官と部下の関係を4型に分類した。即ち-

 (1)有能な怠け者→前線指揮官に向く。理由の1つは、怠け者であるが故に、部下の力を遺憾なく発揮させる。2つ目は、どうすれば自分が、部隊が、楽に勝利できるかを考えるからだ。

 (2)有能な働き者→参謀に向く。理由は、勤勉であるが故に自ら考え、且つ実行しようとするが、他人任せができないので、部下を率いるよりも参謀として司令官を支える方が良いためだ。下準備にも怠りない点も、参謀タイプだといえる。

 (3)無能な怠け者→総司令官や連絡将校、下級兵士向き。自ら考え動こうとせず、参謀や上官の命令に従うからだ。

 (4)無能な働き者→処刑するしかない。働き者ではあるが、無能であるが故に間違いに気づかず進んで実行せんとし、更なる間違いを犯すためだ。

 鳩山・菅両氏は、紛う事なき(4)に当たる。

 ■卑怯な高級指揮官たち

 ところで、第1原発事故直後の東京電力内の一部映像が公開された。映像では事故翌日、首相官邸から戻った幹部がうんざりした様子で、菅氏を「さんざんギャーギャー言う」と、困惑しながら評していた。冒頭で紹介した報告書にある「苛立ち」と併せ「イラ菅」は、指揮官として有害この上なかったのだ。

 しかし、本当は自己の感情を抑えられないだけであるのに「怒る」ことで指揮・統率したフリをする高級指揮官は少なくなかった。

 大日本帝國陸軍第4航空軍司令官・T中将は典型。昭和19(1944)年、フィリピンの特別攻撃(特攻)隊に出撃命令。軍刀を抜き払い大きく打ち振るって、航空機を見送った。それに先立ち、T中将は「君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と約束した。特攻隊員は感涙にむせび勇躍、戦果をあげた。一方で、機関不調や会敵できず帰還した隊員を面罵しながら62回数百機の特攻を命じ、全員が戦死を遂げた。だが翌年、許可を得ずに参謀長や高級副官のみ帯同し、フィリピンから台湾に退いた。特攻隊員との約束を破ったばかりか、死闘を続ける1万の残存麾下将兵を置き去りに(大半が戦死)した。

 ■心得よ最低の恥

 陸軍第6航空軍司令官で、特攻の指揮を執り終戦を迎えたS中将も戦前「決してお前たちだけを死なせはしない。必ず最後の一機に乗る」と「断言」。一方で、図らずも生き残ってしまった隊員たちを「卑怯者」と打ち据え、数多の若者を出撃させた。終戦の昭和20年8月15日を迎えた隊員は、高級参謀に「最後の特攻」を上申。S中将の隊員との“公約”を聞いていた高級参謀も、中将に「司令官もご決心なさるべきかと思います。お供致します」と進言するとこう言い放った。

 「自分は戦後の後始末が大事だと思う。死ぬばかりが責任を果たすことには成らない」

 「怒る」指揮官の多くが、卑怯未練な弁解をするのは、何も菅氏に限らないらしい。

 この時点では「後始末後の自決」を考えていた節もあるが、平和な時代がS中将を変節させる。もっとも、最低の恥は心得ていた。晩年は自己を正当化せず、ゴザ敷きのあばら家に住んだ。斯くして、戦後を38年以上も生き、95歳で“大往生”した。ひたすらもだえ「赦し」を乞い続けた後半生だった。そうするしか、自分を「赦」せなかったのだろう。

 菅氏も昨年10月、四国霊場八十八カ所巡りを再開した。こちらは「被災地巡り」を避け、自らを「許」し続ける、気ままな旅に見えた。

 (政治部編集委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS