事前に下調べなどもしていたのだが、土地勘のまったくない僕は、とりあえず郡山の南麓にある歴史民俗資料館に寄ることにした。そこで受付の職員の方に「相合
「元就の弟の墓が相合の方にあるはずなんですが――」
と付け加えると、わざわざ調べて頂いて、道順を丁寧に教えて頂けたのだが、
「相合
とのご教示を受け、これには内心でビックリした。
むろん驚いたのは僕の勝手な思い込みがあったからで、地元でそのように伝えられているのならそれはその通りなのだろう。実際、毛利元就には元綱の下に就勝という弟がいるので、その墓なのだとしても何の不思議も矛盾もない。
ただしこの物語の主人公について言えば、「相合四郎」という通称で呼ばれた人物ではあるが、その実名は元綱であって、むろん就勝ではない。
毛利元就は、毛利家の家督を相続した直後、この「相合四郎」を謀叛人として粛清した。
これは歴史的事実である。
しかし、不思議なことに、江戸初期に書かれた軍記物語では、このとき「謀叛」をくわだて、元就に誅殺されたのは、「相合四郎就勝」という人物だったことになっている。なかでも木版印刷で出版され、当時のベストセラーになった『陰徳太平記』という軍記物語によってこの説が定着し、それを下敷きにして書かれた読み本や講談などによって、
相合四郎=毛利就勝
という構図が通説化したらしい。
しかしながら、「有田合戦」の場面にその名が現れる「相合四朗」とは、就勝ではなく、まぎれもなく元綱である。このことを断定したのは、江戸中期に生きた永田
この永田政純は、毛利氏研究の根本史料というべき『
この『新裁軍記』の考証によって、
相合四朗=毛利元綱
であると論証されたのである。
我が国の戦国史は実に多士済々の戦国武将を得たが、毛利元就といえば、なかでもビックネームの一人であろう。そのすぐ下の弟である元綱は、「今義経」という仇名まで後世に伝わっているにも関わらず、その実名は長く知られていなかった。それどころか江戸時代の初期においては、誤った別の名で認知されていた。
――なぜこんなことになったのか。
この素朴な疑問が、毛利元綱という人物について僕が興味を持ったきっかけだった。
元綱粛清の後、元就は、仏門に入っていた異母弟の
元就は、空き家となった元綱の相合の屋敷をこの異母弟に与えたらしい。後に城地を与えられ、
やや話が飛ぶが、ここで武士に対する呼び方について触れる。
戦国時代、武士の名には、本姓と
「
還俗して武士となった就勝は、相合に住んで以降、「相合殿」とも呼ばれていたはずである。就勝は毛利弘元の四男であったから、「相合四朗」は彼の新たな通称となったに違いない。
元服して一人前の武士となった時点から数えると、元綱が「相合の四郎」であった期間は、二十七歳で葬られるまでの十二、三年ほどに過ぎない。一方、就勝は、元綱が消えてから三十四年後まで「相合四郎」として生きている。当然だが、後世において「相合四郎」と言えば、この就勝のことを指すようになり、このことから混同が生じたのであろう。
それは仕方ないとしても、毛利元就ほど有名な戦国大名の実弟である三男と四男が、わずか百年ほどの未来において毛利家中でさえ混同され、三男が消えてしまったというのは、どういうことか――。
これが、江戸時代を待たずに滅亡し、伝来の
この点に、僕は作為的な匂いを感じたわけである。
周知のように、これから元就は、四十余年の歳月をかけて毛利家を大成長させ、内訌によって弱体化した大内氏を飲み込み、宿敵であった尼子氏をも滅ぼし、中国地方・八ヶ国にわたる大版図をその支配下に置き、無双の智将として戦国史おける「英雄」の一人となる。その存在は毛利家においては神格化されたほどで、いわば絶対的な存在となった。
が、絶対的な存在であるだけに、毛利家臣の立場の者からすれば、元就の過去の汚点には触れにくい。
そもそも大名が家来を粛清することは、己の手足を己で断つような愚行に属する。まして血を分けた弟に叛逆されたというのは、そのこと自体が元就の「不徳」を表す証拠ということになってしまい、都合が悪い。若き日の元就が犯したこの醜行は、毛利家においては隠ぺいされ、「元綱」という弟の存在自体がタブーとされたのではないか――。
最初、僕は漠然とそんな風に考えた。
一見筋が通っていそうだが、そうなると、元就が神格化される最晩年までの長い期間、元綱粛清のことは家臣たちの間で自由に語られていたことになる。それなら当時の関連文章が残っているはずであるし、元綱の名が忘れられることもなかったのではないか。
ちなみに元就は、後に井上一族の大量粛清を断行している。それは規模においても陰湿さにおいても、元綱の誅殺よりはるかに血生臭いものであったが、その粛清劇が家中においてタブー視された形跡はない。たとえば『陰徳太平記』では、作者はむしろ誇らしげな筆致で、井上一族の誰がどこでどのように
元綱の名が書かれた文章類は、やはり意図的に破棄されていたと考えるべきであろう。元綱の粛清劇は、その事件直後からタブーとされたのに違いない。
事件の真相を知る者が一斉に口をつぐみ、誰もがそれについて語ることをはばかる、その理由――。
たとえばこれが、「
元綱には謀叛の事実などはなく、より政治的な理由から元就が無実の弟を殺したのだとすれば・・・・。
粛清を断行した以上、殺した元綱は「謀反人」でなければならない。家中の者たちはその真相に薄々気づいていたとしても、主君である元就に問い質すわけにはいかないし、もちろん批判もできない。触らぬ神に祟りなし、である。口をつぐまざるを得なかったはずだ。
あるいは、さらに別の「隠さねばならない秘密」があって、その詮索を封じるために、この事件について家中に緘口令が敷かれた、という風に考えることも可能であろう。
無論こういう想像――あるいは妄想――は、歴史家の領分ではない。
先述の『新裁軍記』では、著者の永田政純は、
「年月日は不明。相合四郎元綱が謀叛し、誅された」(筆者意訳)
と題する章でこの事件に考察を加えているが、様々な傍証をあげて、「
「つまびらかなところは知りようがない」
と、そっけなく
いずれにしても言えることは、元綱という存在は、当時を直接知る人間がいなくなると、世間から綺麗に忘れ去られた、ということである。江戸中期に永田政純によって「再発見」されるまで、歴史の深い闇のなかに埋もれてしまうことになった。
では、当時を直接知る者たちの間では、どうであったろう。
民衆の集合的無意識の
殺されたはずの英雄が、実は密かに死を免れ、落ち延びて生を全うした、という伝説が発生することである。
たとえば義経には、奥州・平泉では死なず、
言うまでもなく、現代の歴史考証に当てはめれば信ずるに足りぬ俗説であり、「判官びいき」から派生した「義経不死伝説」が生んだあだ花に過ぎない。
だが、事実と民衆の願いとの間には、あまり関係がない。
義経が生き延びたとする伝説があるなら、その武勇によって今義経とまで呼ばれた元綱にもそれがあったと想像することは許されるであろう。大永四年(1524)の当時、吉田に暮らした人々の間でそんなうわさが囁かれていたとしても、僕は意外とは思わない。
毛利元就といえば「冷徹な謀略家」というイメージが付きまとうが、それはこの人物が「敵」に対するときの一側面に過ぎない。元就は「家族」に対しては実に情深く
その元就が、自分を
それは、元綱を誅殺したことにし、実は密かに逃がしたからではなかったか――。
願わくばそうあってほしい、という、ただそれだけの理由で、この物語ができた。
就勝のものとされる「相合四郎の墓」は、相合地区の吉田運動公園の近くの路傍にひっそりと佇んでいた。
僕は用意のカップ酒を捧げ、線香をあげ、煙草二本分の時間、そこで感慨に浸った。
その墓石の下に元綱は眠っていない。そのことが、僕は逆に嬉しかった。
――やっぱり元綱は船山城では死ななかったんじゃないか。
そう思えたからである。