※画像は脳のスキャン

40分間/週3回のウォーキングは、

記憶力を上げるそうです!


ちなみに、車椅子の子供と歩くのはノーカウントらしく

自分のための時間作りが必要そう…。


でも、やらないよりいいかな!笑い泣き笑い泣き笑い泣き



※以下の記載内容には当てはまらない福祉職関係の方もいます。良い方もいるので、その方々へは不快な内容で、失言申し訳ありません。



さて!

昨年一年間、特別支援学校で過ごした我が子。

本当に辛い日々でした。


他の生徒がおむつを変えてもらう姿を見るのが、ここの授業、

これは、学校長からの言葉の一つ。


こんな、生徒への侮辱、、忘れません。

特別な支援教育に長けた専門職がいると思っていたのに。




それまで小中学校9年間、

地域の学校の、個別級に在籍しつつ、

五年生からは本人と家庭の希望として、

「交流」として、先生か支援員さん付き添いのもと、

主要教科など毎日通い、

中学校からは、別室にて同じテストも受けていました。


家庭でのフォローもしました。(してます)

みんなが公文や学研、または塾に行くように。



肢体不自由の子供は、

知的障害の重い方と同等に扱われることが多く、

考える力があっても、放置されます。


特別支援学校で、考える力のある生徒さんは、

重い生徒さんの支援に回ることが美徳と学びます。



外を知る私は、とても辛かったです。

もっと豊かな学びはあるのに…。と思っていました。



小学校の時、

特別支援学校からきた先生が息子をも担当した際、

「こんなに重い子に学習させるなんて可哀想」

「この子は障害が重いから何もできない」

と平然と言われて、憤りを感じました。


その後、指摘するとのけぞって不貞腐れたので、

委員会にて事実確認後、処分していただきました。



他の先生方への影響もありましたので…。



特別支援学校の先生が、他の先生や保護者らに

指導していたことを以下に記します。


例えば

「障害を受容する」→校内で好きなように徘徊させて放置する


「座学の授業をさせない」→障害児が可哀想だから


「静かにしようねとは言うべきでない」→特性によるもので指摘は可哀想


正直、もし集団教育を希望しないなら

特別支援学校で学べばいいのですよ。


脱走防止にマンツーマンで、歩き回りますし、

廊下で叫ぶと、他の生徒さんへの悪い影響があるので。



なぜ、個別級?と。


特別支援学校の先生としては、

障害なんだから仕方ない、できない

他害行為についても、指摘しないことが最良の対応、

それを周りが受け入れることが、障害への配慮、理解、



そう言った文言に対して、違和感を持ったのは、

私だけではありませんでした。



何年もかけて、発語のない自閉症の重い子を

みんなに合わせて動けるように指導した経験がある、

個別級の先生にとっては、

できるようになるのに、指導しないのは可哀想、

そのように思うわけです。


それまで積み上げた指導を、

一気に壊されて、校内徘徊、奇声を上げさせ、

何も指摘せず、好きなように過ごさせる、その先生。



「せっかくできるようにしたのに…」

誰しもそう思いますよね。



特別支援学校には、センター的機能があり、

来校される場合がありました。



個別支援学級を支援する指導主事の先生方は、

横浜市だとエリアごと、

(青葉区だとセンター南の北部教育事務所)

または、和田町にある、特別支援教育総合センターから

肢体不自由をご存知な指導主事の先生に来ていただき、

その障害の生徒がどのように指導を受けるべきか、

考えてくださるのですが、

必ず、まず子供にも挨拶をしてくださいました。



だって、見に来るのですから、

子供をじーっと観察してみるわけです。



だれ?あの大人は?と、子供は不安に思うわけですよ。



一般校の教育現場で指導歴ある先生は、

「○さん、今日、○さんの様子を見させてもらう、

○です。よろしくお願いします!」と、

ニコっと子供へ話しかけてくれていました。


他の子供達にも影響がないように、

口角を上げ、口元は笑顔で接する先生が多いです。


それがですね…、

特別支援学校しか経験ない先生だと、

無言で現れて、無言で真横か目の前に座り

ただしかめっ面で、子供をガン見するわけですよ。



普通の精神であれば、気持ちよくありませんよね、

目の前で自分を見続ける、怖い顔の大人がいるなんてえーん



でも、特別支援学校の先生は気にもしません。


特別支援学校では、

普段、話せない子供達しか相手に仕事してないので、

普段からそのように接していますし、

わからないとしか思っていないのです。

他の子供達への影響も考え(られ)ない。



ちなみに、帰り際、

普通の学校勤務経験ある先生は、

「見せてくれてありがとう。もう帰りますね」とか、

「今日はありがとう」など言ってくださいますが、

特別支援学校の先生は、全員、無言で消えます。




生徒に声かけをする先生を、見たことがありません。



話しかけられない限り、誰かと話そうとはしない、

特別支援学校の先生と、

積極的に人と関わり、多くの情報を集めようとする、

一般校勤務経験のある先生。



この差は本当に顕著で、明らかです。



一般校の学校の先生なら、くすっと笑うかも。

見たことがあると思いますので。チュー




特別支援学校では、

自閉症の重い児童さんは好きなように校内徘徊させ、

後ろからついて回るだけ、自傷も血だらけでも放置、

部屋に閉じ込め、硬い壁にぶつかって暴れても放置。

(壁にクッションを貼るように私が言いましたが…)



だから、奇声も抑えられないです。

特別支援学校の生徒さんが、環境の変化に敏感なのも、

12年間、環境が変わらないから。



ルーティンがある、と決めつけて、

刺激を与えないようにすると、

将来の選択肢が狭まります。


療育センター通いからスタートしていますからね。

閉鎖的空間での教育は…えーん


大人の偏見で…ニガテあるお子様が可哀想すぎます。



12年間、そこで半日以上生活し、

顔ぶれさほど変わらず、同じ学年の仲間と過ごし、

同じルーティンで好きなように過ごす。



校内で落ち着いても、外で落ち着かないのはそのせい。



アメリカでは、障害があっても働こう、

なんとか外に順応させよう、と、

親御さんが学校の指示でイヤマフも外し、

多くの人と関わらせ、

他害行為はあらためさせたり、薬で抑えたり、

積極的に治療、加療しています。



転勤でアメリカに行って驚いた、

という方が多いのですよ。



先生にも強い特性があるのに、

子供達にそれが影響しないわけがありません。



特性のあるお子さんこそ、

多くの人と関わりを持ち、

あえて新しい環境において、よく観察すること、

そして、親の愛情をしっかりと伝え、

子供に合わせず、家庭に合わせさせる、

それをやるまで、「愛を持って諭す」こと。



三つ子の魂百まで、と言います。



確かに3歳超えても大変でしたが…。(我が子)


小さく生まれた赤ちゃんは、自閉症併発が多いです。

我が子もひどく頑固で大泣きし、特徴的でした。

今も頑固ですが。



普通の子で3歳ならば、

うちの子は6歳か、と、考えたものです。

(終わりを先だと考えて、忍耐力を鍛えてますチュー



納得いくまで泣き叫ぶこともありましたが、

(歯磨きや、わがまま等で)

絶対に親は折れません、、曲げません、と態度で示し、

子供に負けない。



あなたの今の行動にはとても残念でならないけれど、

あなたのことはとても大事に思っていて、

幸せになってほしいと思ってる、

笑っていてほしい、

あなたのことは大事な我が家の子供のひとりなんだよ、



と、、喋らなくても、目を見て伝え続けて、

どうせ障害だから、自閉症の特性だから、と思わず、

他の人から見て不快な行為は改めて、

あなたの本質ではないと思ってる、

ひたすら伝え続けたものでした。



(我が家はまだ継続中のこともあります)



子供を愛し、不快な行為は改めさせる

障害だから仕方ない、と一律同じに考えない、

これは私の考えです。



よくなれば、将来の進路が増えるのに、

どうして教育しないのですか、

どうしてできないと決めつけるのですか。

障害者だという偏見で子供を見ないでください、



これは、私が、よく特別支援学校出身の先生や、

特別支援学校の先生に言った言葉です。



障害福祉の勤務、指導経験のない先生や支援員さんの方が、

偏見がなく、工夫をしてくれることも多々あります。



障害者は皆同じではないですし、

障害、だから、なんなのでしょう。


障害者手帳というパスポートを持って助けを得てるけど

いつかこれが不要となる日が来てほしい。


世間には、

障害を認められず、家に引き篭もる人もいますが、

それより社会につながって生きた方が幸せ、

と私は考えます。



ニガテは克服できる、いつかわからないけれど。

みんな、どんな人も努力しているので。



障害児だから努力や教育は不要、

障害児だからわからない、

そんな目で見ないでほしいです。



「ママ、独り言が多いですね」

「おむつをとっても大変だし、無駄ですよ」

これは、我が子は3、4歳の時に、

療育センターの先生らから言われた言葉のひとつ。



発語がなくてもこの子はわかってる、

我が子に、同じ状況は同じ言葉で話しかけ続けて、

毎日、絵本を持ち歩く私を、先生らは嘲笑して、

カルテに「障害を認めない親」と、

たくさんの悪口も書いていた療育センターの先生に

私が言った言葉です。



※ちなみにカルテ開示したのは、かつて裁判に持ち込まざるをえなかったため。

保育園で加配のはずの保育士が実際はつかず不在、やんちゃな園児に車椅子を押させて走られた後に起こった、顔からの激しい転倒後に、病院搬送もされず園に放置され、私が横浜市に事故を届け出。

お金儲け主義の、その青葉区内保育園理事長から、

できないことがある人間が、できないことが事故で増えても、できない人間としては変わらない。私は裁判には慣れているし、あなたが苦しむだけですよ」と言われて…障害者侮辱が悔しく…、刑事、民事裁判となりました。(刑事事件としては起訴され保育士のみ罰金刑、民事は形だけの和解、保険会社から支払い、保育園はノーダメージ)



障害といわれても、我が子は我が子。

一方的に「専門職」のその方の子育てを押し付けたり、

できないと決めつけないで。


指導に強い疑念があった、車椅子の末っ子の幼児期。



結果として、今思えるのは、

私は間違えていなかった、ということ。


Nestの常連ママさんたちも、

家庭で努力を重ねた方々が多く、

専門職の指導に疑問を持った方が多いです。



世の中の常識は、

障害ある子にとっても、常識。



障害があっても、なくても、

1人の「人」として、専門職らも扱ってほしいものです。