私はこの感情が多い方だと思う。


気分屋や双極性障害は、

この感情の振り幅が大きくて、

それを使い続けた結果、

コントロールが効かなくなり、

周りとの関係性が悪くなるから、

お薬をつかって調整するしかなくなるのかな、と。

 

 

いい子であることや、

楽しい人であること、

いい人と思われたいという欲求が強いと、

人前でテンション上げすぎたり、

気分がふさぎ込んでいても、

お客様の前だと明るく振る舞うなど、

社会的スキルとしても求められるため、

それらを使いすぎるとストレスも高くなる。


適応障害というのも、

これに当たるような気がする。

 

 

「喜」を表現しようとしたら、

場にそぐわなかったり、

「怒」はコントロールするべきだと

言われていて、

たしかに周りも自分も傷つけるから

用心が必要だし、

「哀」もストレートに表現しても

悪くないこともあるが、

病的なそれはみていて心地良くない。

「楽」はその選択ばかりをしてると、

惰性のような自分に罪悪感を感じるので、

一生懸命であろうとしてしまい、

楽になれない。


私たちは何かになろうとして、

この喜怒哀楽を適度に使うことなく、

機械のように計算して振る舞うことを

身にまとうようになった結果が、

「精神疾患」なのかもしれないと思うようになった。

 

 

この業界で言われる

「ありのままの自分」という言葉を使うと、

ありのままの自分が解らないという人も多い。


幼少期から本来の自分を抑圧されて

生きてきた結果、

ありのままの自分と出合わずにして、

ここまでやってきたのだから、

その台詞がスムーズに出るのが

むしろ正直な感想だと思う。

 

 

ありのままの自分を表現しようものなら、

こびりついた価値観からの

他者や自分へのジャッジばかりで

人から好かれるとは到底思えないところまで

きてしまってるから、

そんなことは出来ることもないと

そう思うだろうし、

そんな病みまみれの人を理解するには、

こちらも消耗してしまう。

 

 

それでも愚痴や不満を一度だして、

自分のことを点検していく必要がある。

愚痴や不満を出し切ったら、

本当の自分がコロンとしていて、

それはとても空虚で寂しい、

ただ鎧をきていただけの自分であって、

今度はそんな自分に嫌気がさすこともある。


でもそこからまた

少しずつ自分の選択で積み上げることは出来る。

嫌だな〜ってことはもう無理はしないで、

自分が欲しいものだけを求めていければいい。



過去に持ってた荷物が

ただ重たいだけで不必要だったと解ると、

自分が毒や病みにまみれていて、

ただ駆り立てられるように、

強迫的に生きてただけの人だった。


もちろんそういったことを

難なくこなす人がいて、

そうなることが求められていると

そう思っていたけれど、

それは出来る人に預けておいてもいいし、

何者かになる必要はなく、

自分が喜怒哀楽を適切に表現しながら、

ゆっくりと歩みなおしてもいいんだ。


今のところは、まだここ。

与えられるものを

自分が出来ることだけ、

やっていけたらいいと思っている。