claustrophobic atheist -2ページ目

can't keep me here

何が重要で、とか、考えてしまいもするが、

イデオロギーをくすぐるだけのものならば、必要ないのだ、

「何度でも感じた」、それできっといいのだろう、


、、と言い訳を保有する。


[てゆか不眠症]
一日に何文字を連ねているだろうか、それが何かの役に立つかは別として、肝心のそれに関する作業があまり進んでいないのも事実で、そう、それは、それなのだ、
普段の不断なる決意は、なによりも、相手の感情の参照が大切で、壇上に参上する私は、自らの鈍情を躊躇いもなく爆発させる、というようなそれであり、どのような名前がつけられようとも、それはある一つの定義なのでしょう、そして私は、そう、主体たる私は、空間を構成する'物質A'に成り下がるわけにはいつだっていかないのだ、どこ相手にしてもリアルに言う、それが俺らが真剣にやる理由、

ESを躊躇いもなくエントリーシートと読めるようになった自分に驚きを隠せません

what can stem cells really do?

何度でも感じた、それでいい、

独立的テーゼは、科学とは独立した世界の存在と秩序を認めようと探る、知識テーゼは、科学とは独立した世界があるか、ではなく、それについて科学によって知ることができるかと探る、目的を動性する、バークリーは言う、「存在することは、知覚することだ」と、そう、知覚を離れては世界はない、といったところか、観察可能を超えたところに、確かにあるもの、触れてしまえるんじゃないかってぐらい、感情が震えたのを、今日だって何度でも感じた、科学の言葉で定位するならば、収束ってやつだろうか、科学的実在論は、科学の成功を奇跡にしてしまわないただ一つの仮説、と定義付けられる、つまり、当然、というものを脱構築する、偶然、というものを脱構築する、思うに、ソーカルの皮肉のように、イデオロギーをくすぐるだけのものならば、必要ないのだ、何度でも感じた、それでいい、

それ即ち、言及である、関与である、

心が悲鳴を上げている、気晴らしに絵画について、

渋谷で、第一印象を大事にする派閥の人たちの絵画を鑑賞した、
まず感じた、すべての表象は結果的に論理的、というかある論理を持ちえるとして解釈可能なのである、と、描いた人に電話して幾つか訊ねたくなった、と言ったら笑われたが、その理論を、意味を、意図を、知りたくなった、想像でいいなんて言うけれど、それはまさに創造であって、僕は真を知りたかった、せっかくの現実なんだし、でもそれは、小説を読むようにして観るのか、エッセイを読むようにして観るのか、の違いとかであって、色々な在り方があって、全部良い、
没論理のように誤解され得る曖昧な形式も、ただ「可視的ではない種の論理」なだけだ、そういや、ここ日本では洗練された表現は沈黙に向かうとされている、「可視的ではない種の論理」が好まれている、とされている、以心伝心を極みとした、関係性を担保とした省略の言語、割愛と想像が親密さを介して行われている、絵画においても、鳥や木の枝などの背後に佇む空白の背景は、情緒を表象する、俳句や短歌、などなど、そんなことも思い出しながら、文化を超えてどう受け取ろうかをすごい考えた、「単純に感じよう」と思考して、絵の前で目を閉じて、開いて、ってしたら、危うく世界に取り込まれそうになった、けど、俺はやっぱ、そんな自然に囲まれたことがないから、想像つかなかった、「もっと柔らかく存在できたらなぁ、」
空間内に閉じ込められた物理的量だけの表象があるのではなく、「コンテクスト」が重要に影響しているのだろうと感じた、音楽にも言えることだが、やっぱり表象の主体の属性(性格、身長、見た目、性別、、)などといった要素が、僕らの感じ方に少なからず影響を与える、絵画を鑑賞するときは、表象体である絵の見た目からコミュニケーションを持ちかけられるのであるが、その内部にこちら側の価値観が干渉を始めるのも間違いない、物理学が還元主義から複雑系の進展へと移行していったのは、そのそれだと思うのだが、つまり個々の要素を幾ら綿密に拾い上げようとも、それをそう知覚する、つまりそれを観ることによってある一定の心的情景を浮かび上がらせるその仕組みの深遠に近づくことはできないのだ、その個々の要素がつながり関係しあって、一つの結果が形成されているからであろう、そしてそれはネットワーク理論につながるのであるが、つまり、どこまでがそれへの知覚に関連しているかということが重要となってくる、そう思考した瞬間に、そして、描かれた年月が刻まれているのを見た瞬間に、莫大な数の人間が僕の頭に数字として立ち現れ、一つである一つに意味を無効化した、例えば俺の好きな人が書いた些細な絵の方が、俺には響くだろうし、という言い訳を内部にこっそり抱えながら、
でも、正直言うと、点の集積として表現された絵画を直視したときに、すぐさま自分がそれをそれと了解したことに愕然とした、自分が見ている世界の性質、つまり呈示することでしかそれを伝えられないことに愕然として、そしてそれを、曖昧なそれを、反射的に人は了解しているということに驚いて、思考を止めたのである、それは同時に、触れられる存在に、せめてもの曖昧の削減として言語化した、挙動化したコミュニケーションをとる存在の方を選択しようとする考えの論拠にならないだろうか、例えばミスチルの桜井さんが歌った歌は、ときにそれ自体が理由となって、俺には響くだろうし、「でもなんだかこれは曖昧だなぁ、」

でもこれだけは言える、「繰り返し立ち現れる直感」は、正しい、
少なくとも有限の世界に生きる俺らにとっては、


と言い訳を体系するが、
本当はそんなこと思っちゃいない、
日常の直感は自分の生命を有限なんて思っちゃいない、
確固たる何かを抱え、心が悲鳴を上げた、

angst metapha

[いったい何文字の黒を白に乗せただろうか、]

議論が飛び交う中、緩やかに文字列を連ねていた、エントリのために、音楽という存在を解体していた、目の前に広がった文字列は、というか、文字列は、どう見ても、記号じゃない、実体を想像する可能性を秘めている、ということは、実体を創造する可能性を秘めている「社会」の構成要素たる’私’は、それについて言及することで、自己を創造しようとしているのだ、あぁ、と、空調で若干暖かくなりすぎた喫茶店内で思考していた、そう、室温のせい、、

殊珈琲に関してはどんなに熟考しても、俺らの規律はこなごなに崩れ散ってしまう、ときには鼻歌を馳せながら店内に突入する、店員の配慮に優しく首を振る、彼らは砂糖もミルクも必要としない、宗教上の理由、珈琲という奇跡への宗教

当然、抑制だけが俺らの特質ではない、社会にとっては、そのメリハリの抜け目なさがそれ以上の例外である、誰の日常も失墜させず、静かに音頭する、それはカフェインが科学的に持つとされている以上のそれだ、つまり、知識階層がいかにも好みそうな説明不可能な(創造とは遠い)文字群を避けて生きている、何故ならば、時間を無駄にしないためである、バンドが想いをCDに保存していくように、俺らは情動を保存し蓄積する、何故ならば、それが次の笑い創造に蓄音機として使用されるからだ、集団内で上手く対象化し合い、常にアグレッシブにせめぎ合うのだ、エリアのライトが消え去るまで互いのことで笑いを創り合っている、曰く「そして思った、それをもっと探求してみたらどうだろう」、勿論、いつだって片手には珈琲がある

そう、珈琲のせい、、



いったい何文字のそれがまだ必要とされているだろうか、、



Kダブいわく、
「まず自分が何を代表すべきかの対象以外を即排除」

僕は今日、この機知に富む韻(もちろんドープフロー)から有効な着想が得られることは、まず間違いないと気付いたのであった、

自分次第で変わる環境、頭に残ってる残響、

-活動に言及-

初めて昼からずっとノートと向き合った一日、気付いた、自己分析をするとヒップホップにたどり着く、その主題に頻繁にレペゼンされる、定義に内包されているからであろうか、自分の目線からレペゼンする、だったり、自分自身が自分自身である経緯について語る、だったり、例えばTXのwhere's my hood、ジブラのSTREET DREAMS、Kダブの理由、ギドラのリアルにやる、昨日買ったケムマキのMemory LaneとかInner City Blues、ライズのwhy i'm me、英語だし早口であんま分かんねぇし何よりどこまでマジか分かんねぇけどEMINEM、Lose yourselfとか、あとフォートもわりと全部そうだ、


半分冗談だけど、ちょっとマジで思った、「果たして俺はリアルか」

no styleで調子いい

なんかの勢いで、ツレとレコ屋でインストゲトったら悟った、

03で出会ったリアルな奴ら、だから今俺にある言葉放つんだ、

この先に見えるでっけぇ獲物、全然遠慮せずぜってぇゲトろう、

-dope acid-

ACIDMANインストアライブに参戦、AKAイルストリート渋谷タワレコ地下マジで最前線、「行くぞ」と布告されし宣戦と態勢の万全、大量の水分と熱量がそこら中に伝染、暴れる主体になるという[受け身]を気の遠くなるほど貫いた、目を閉じてみたら、光だけ残って、所与たる音は僕を貫き、言を綴じた、「この曲ってこういう曲だったんだ」、という知覚を感じ続ける、バスドラの音数が増えるにつれて圧倒的な波が襲った、、、とにかく、ひどく懐かしい現象だった、忘れていたものを思い出してしまった、それは遠のくくらい、遠い感覚、

その後、偶然を享受し、温かい気持ちを得た、また穏やかに、この季節の灯を、

その後、午後9時過ぎ、
とりあえずタワレコさんに感謝を、と思い、戻る、
CDを探す、今年初CDを購入、
CHANGE THE GAMEで知った、
UBGのKM-MARKITの盤をゲトる、
今聴いてんだけど、やっぱすげぇ、よかった、
超勇気出してディグったけど、ハズさなくて、よかった、

alphα 'n omega

[sit and drink pennyroyal tea]
切断点の無い昨日と今日の間、うなされる夢を見た、うなされていたのかも知れない、だけど、少しずつだろうが、軽くなる自分がいる、

どうも珈琲好きの友人が多い、それも、色々な文脈で出会った人の多くだ、だから最近、家では紅茶を入れる、
自分の意思じゃないかもしれない、という疑問が少しでも浮かんだとき、僕はその行為を止めてみる、
そして解答を得る、俺珈琲かなり好きだ、
そういえば入学当初に手作業のmachineを得て、以来ほぼずっと豆が常備されている、
こんな風に自分を取り戻すスターバックス、久々に早く起きて、なんか眠いのかすら分からないが、目の前のノートを埋めんのが楽しい、


BGM:Pennyroyal Tea/NIRVANA

in da place to be

[それを起源にする所作は、いつだって収束に辿り着く]

とりあえず眠くって、忙しさを潜っていった身体は、珈琲に短絡していた、
そして度重なる度重なりによって、疲弊したのではあるが、
痛みとして表象されたことで、それは遠のくこととなる、

そして時系列に上手く乗り、僕はただ運を享受した、
今日の後半がとても緩やかに流れていたことだけは、強く感覚している、
それは夜の闇に、いつもの光景に、色彩を放つのだ、
あの淡い青い光は一体なんなのだろう、この感覚はなんだろう、
だとかぼんやり思いながら、想いながら、

こんなにも穏やかでいられるのだ、

認知される感覚は、ときに感覚に本来的に内在するものではなく、主体たる自己と他者との関係性における衝動なのであろう、それが現象するということの意味は、すなわち、感覚の差異が消去される、いや、感覚の隔たりが存在しないことに気付くプロセスであると言い得るのかも知れない、だとか手続きを振るうのだが、本当は少しだけ別のことを結論付けるのだ、そして言わない、

どの意味を知る他者も、いつだって一人だ、


なんの話かと言えば、夢の掛詞の話だ、


today's...:CANDY/Mr.Children

outta thin air

感覚のもつ印象的な痛みが、夜の底の手前で僕を包んだ、

刺激されきった涙腺にさらに触れる見慣れた物質を、心で観察する、
少しだけ暖かくなった冬の、とても寒い夜の底で、
生命体たる所作として、温度を探していた、
驚くべきことに、自分の中から僕は温度を取り出したのだ、
懐かしい印象的な痛みが、苦々しく僕を包む、
涙腺の要請に、僕はただ応じた、なんの抵抗もなく、
そこ以外に温度のある場所なんてなかったからだ、
だから余計にそれは、僕の涙腺に触れ続けた、
一体誰が僕を身体に留めておくことができようか、
紛いようがなくそれは、自分自身の痛みだったのだ、
だからそれは、僕のそれに触れた、

普遍量化文は、永遠にごく小さな値を超えることができないが、
そこでは真が溢れ返っていた、それが僕の全てだった、
それ以外に僕には何もないのだから、∞-0の数式も∞を示すように、
達成された∞は、まさに真であった、まさに僕であった、
人体は連鎖の末に、もはや数量では表せない質量を持つ、

きっとそこからが昨日で、その終わりたる今が今日なのだろう、
そして僕は昨日の話をしようと思う、そう思考するそれこそがそれだ、

ゆるやかに流れる一日だった、色々なことを思考空間に放った、もう見慣れてきたあの淡い青い光の所属をぼんやりと気に掛けながら、僕は膝を抱えていた、

真っ白な砂漠に文字を置く、その広大さに戸惑いながら、これも違う、これもなんか違うなぁ、と、結局は言い表せないなぁと気付き、風が吹けば消えるだろうからと、とにかく真っさらな言葉を置く、言葉は感情を薄めてしか手渡せないが、だからこそ言葉にこだわってみる必要があるのかもしれない、逃げてはいけないなぁ、と、そして息を吸うのだが、目を閉じて思い浮かべると、いつもただただ明確で、識閾の外に辿り着いた気分にすらなったりもする、要はそれを表象すればいいのだが、表象しよう、はいそうしよう、などと、軽快なリズムに乗れはしなくて、結局はまた目を閉じる、、そして目を開け始めるわけなのだけど、単純にはしたくないなぁ、などとこだわってはみるが、結局はベンチで膝を抱えたりとかしてみる存在となる、寒いなぁ、だとか独り言を言ってみたり、されど、なんか安らいでしまっている、なんか、あぁ、僕はただ存在する潜水、存在する潜水、

僕は、ただいたずらに存在する潜水、


こんな韻を僕は踏んでいた、

かき乱すそれに取り乱す俺は、
惜しみ無くそれに即は問い返せず、
ただ寒々と無くこれと無く毒される俺よ堂々たれ、
信念の報告たるそれに疑念の空洞無く従う、
誠実なる結実を摘出すべく俺は、
和をもって尊しとなす、
言うまでもなく添う果てもなく、
軽々と紡がれうる言葉締めだし、
振り出したそれにただ従う俺は、
独りよがる傘をさしながら一人と添う、
瞳を問う人々よ、廻れ、
どのビートも丁寧に廻りやがれ韻と、和と、
(December 09, 2005)


ただやりきれなかった、新しい痛烈な痛みだった、
けれど自己の思考するようにしか、個は行動できない、
振り出して、それは僕の前で降り出したが、
僕にはどうすることもできなかった、
簡単な原則と一致する僕は、すなわち人だ、

自己の欲望するものを、人は求める、



こんな風に僕は僕を表象した、

supernovaは、概して音を立てることができない、novaもまた、近付かなければ、音は後に後にと引き延ばされ、間隔は感覚を殺し、感情を殺す、、、わけではないのだ、単純に、気付きを与え、冷静さを取り戻すことを意味するのだ、価値や優先を整理させ、「流れ」を俯瞰させる、不完全な思考を改善し、最善させ、帯電し、シナプスとシナプスを繋ぎ、電子は流れ、不完全な思考が生んだ取り戻せないそれから幾らかを得て、未来を最善にと、引き寄せる、つかず離れずがその術でも、傍にいたい、自分自身の傍に、いなきゃならないのだろう、僕はそのように思考する、
(November 28, 2005)

一体誰が僕を身体に留めておくことができようかということだ、自省から「最善の未来」にあると希望する磁性を手に入れようとしていた、そして僕は感覚を何度も帯電した、単にそれに従って今があるのかも知れない、タイトルに時系列は赤裸々に刻まれていた、supernova, no order, its over, 'n nova、


今日は長い時間歩いていた、
強い気持ちを強く感じながら、強く、

また少しだけ黒を白に乗せる、長くてほんとごめん、

なによりも、相手の感情の参照が大切で、壇上に参上する僕は、自らの鈍情を躊躇いもなく爆発させる、どのような名前がつけられようとも、それはある一つの定義だ、そして僕は、そう、主体たる僕は、空間を構成する'物質A'に成り下がるわけにはいつだっていかないのだ、


とにかくこのようにして僕は存在する、

だから今、とても穏やかにぼんやりと珈琲を飲めている、
やっと穏やかに、僕は、

今日の一曲:キズナ:ORANGE RANGE