こんばんは〜
今日は
午前中
娘のネイル
その後
ランチ
スイートポテトナンが
美味しい〰
私は激辛
娘は甘口〰
そして
今日は
おとうさん(旦那さん)の
60歳の誕生日
なので
お花を買いに
病院に持っていくも
受付で
看護師さんに
渡してくださいと
お願いするだけ
誕生日だから
特別に少しだけでも
あわせてくれないかなぁ
と
淡い期待をしていましたが
撃沈
だと
思いました〰
今日
60歳の誕生日なんです
息子も朝ビデオ通話で
おとうさんに
誕生日おめでとうございます
と
伝えてと
言ってました
娘も
車で待っていますが
お誕生日おめでとうと
言っていたと
伝えてください
と
お願いして
花束を渡してきました
何日かは
花を見て
香りを楽しんで
いっときでも
笑顔が出てくれたら
嬉しいです
ここからは
独り言のようなものですので
しんみりしたくない方は
飛ばしてくださいね
おとうさんが
多系統萎縮症を発症して13年
息子が高校受験を控えているときでした
足が思うように動かない
呂律がうまくまわらない
手がこわばって 字が上手くかけない
初期症状がでて
診断がつくまで2年かかりました
病名がついたとき
お父さんもわたしも
やっぱり 病気だったんだ
と
少し ホッとしたのを覚えています
しかし
診断がついたからと
仕事をやめるわけにはいかず
だけど
仕事が
辛かったのだと
思います
けれど
子供2人
大学を控えており
おとうさんには
ぎりぎりまで
叱咤激励し続け
仕事をしてもらいました
排尿障害も出始め
職場で
おしっこを漏らしてしまい
同僚が
後始末してくれた
と
泣いていました
もう少し
頑張ってとは
言えませんでした
それから
休職
退職しました
息子と娘 2人
大学に通っているときでした
今
思えば
自分の足で動けるときに
仕事など辞めさせてあげ
お父さんの好きなように
お父さんのしたいことを
なぜ
させてあげなかったんだろう
と
思いますが
あの頃は
一日でも長く頑張って働いて
もらう事しか
頭にありませんでした
わたしも
頑張っていました
がむしゃらでした
いっぱいいっぱいでした
娘を大学に送り
そのまま 仕事へ行き
昼休みに
娘の大学に行って
娘のトイレ介助をして
車の中で
おにぎりを食べながら
職場に戻り
15時半まで仕事をし
そのまま
また
娘の大学に行き
トイレ介助をして
娘の授業が終わるのを車で待ち
家に一緒に帰り
お風呂に入れ
ご飯を食べさせる
生活を4年間続け
娘を無事
卒業させることができました
私だって
きついけど
頑張ってる
お父さんも頑張ってよ!
リハビリと思って
自分でできることはちゃんとして!
あの頃
優しい言葉ひとつ
かけた記憶がありません
お父さんの病気も怖かったけど
先の人生が怖かった
自分の肩にのしかかる
重さに
耐えれなかった
車の中で
1人
いつも
泣いていました
膀胱障害で
膀胱瘻をつくり
嚥下機能が落ちて
誤嚥性肺炎を繰り返し
気管切開
胃瘻
3年前から
車いすに乗ることもできなくなり
寝たきりになってしまった
おとうさん
それでも
最初は
ボードを使って
目で会話できたり
手を少しは動かせたので
娘の手を握ったり
帰りに手を振ってくれたり
できたのですが
容赦なく
病気は進行して
今では 目も
眼振でボードを使うこともできず
手足も
硬直してしまい
両手とも
グーを握ったまま
開かなくなり
肘も硬直して
伸ばすこともできません
そして
この
コロナで
一年間面会禁止で
娘の顔も
一年見れていません
お父さん
お父さんは
病院にいるのに
私達の生活の中から
お父さんが
いなくなっているよ
お父さんは
一人で
長い長い毎日を送っているのに
娘と美味しいものを食べ
笑い合って
気持ちのいい天気だね
なんて
言っている
自分が
ときどき
罪悪感で潰れそうになるよ
こんな
気持ちの良い天気の日には
特に
お父さんを思うと
胸が苦しくなるよ
コロナの前は
毎日のように
病院に行く生活が
当たり前だったのに
最近
娘も
お父さん元気かね?
と
あまり
言わなくなり
お父さん
頑張っているのに
いないのが当たり前に
なってきていて
そんなお父さんに
申し訳ない気持ちで
いっぱいです
60歳の誕生日なのに
還暦祝いもできず
家族の顔を見ることもできず
お父さん
何を思っていますか?
わたしを
恨んでいるかな
風を感じさせて
あげたい
春の匂いを
感じさせて
あげたい
生きていることを
実感してほしい
お父さんと
7つちがいの私は
22歳のときに
お父さんから
お前が
死ぬとき
必ず
いい人生やった
と
思える人生に
俺がしてやる
と
プロポーズされました
お父さん
約束
覚えてる?
わたしは
ずっと
おぼえてるよ
約束
守ってよ