国家廃絶の時、戦争がなくなる | 労人社のブログ

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戦中日記(続労人社だより)220312号

「国家廃絶の時、戦争がなくなる」

🎶いつから、ジョン・レノンの「イマジン」が五輪や戦争が起こった時に、平和を願う人や反戦を願う人々により歌われるようになったのかは知らない。80年にレノンがテロに銃殺された日、9・11から等説は色々あるが、間違いなくこの曲がリリースされた71年からだ。

✊それは、54年から20年続いたベトナム戦争がアメリカ軍の介入で苛烈さをます中、大規模爆撃、劣化ウラン弾、化学兵器の使用にも関わらず、米軍の惨敗がほぼ確定しつつあった頃だ。米国内での若者たちの反戦運動の高まり、ドルの金兌換停止、中国との国交回復で、アメリカが名誉ある?撤退を模索せざるを得ない状況に追い詰められた年。この曲が流れた。

😱近現代史は戦争と革命の歴史である。20世紀は戦争の歴史である、との説もあるが、これは2重の意味で誤りである。近現代史の起点は1848年の欧州革命で、ここにはじめて労働者が政治の舞台に登場した。戦うべき相手が敵国の軍隊ではなく、同じ国の中で暴威をふるう政府、権力者であることが明らかになった。

😓戦後、日本人にとっての恥ずべき歴史は、満州〜アジア〜沖縄、ヒロシマ長崎と多くの戦争犠牲者を出しながら、その戦争犯罪人を自ら断罪せず、あまつさえGHQと共謀し、軍人、官僚、司法官らの追放解除を黙認して、自民党という反社組織を許容し続けたことにある。いま、天皇のための國體護持恩赦で出獄した犯罪人の末裔達が、またぞろ核武装論を唱え出した。恥ずかしい。

😷ベトナム戦争での米青年たちの反戦運動、いまのロシア国内での反戦デモが、戦争の本質が国家(というより国家村に寄生する者たちの利害)により企図され、その勝敗は市民、庶民の犠牲者数で決まることを示している。われわれはバカな戦争など欲していない。国家権力とその仲間たちが、金儲けのために行う悪行である。

💢1848年、中世の封建制から近代への転化の指標は、資本制生産と国民国家の成立とその発展である。労働者をこき使い、他の未開?国へ製品輸出に精出し、せっせと資本蓄積に励むのがお仕事になる。国家の政策は競争国との角逐、未開国ーアジアへの植民政策が必然とならざるを得ない。われわれが個々に愛する国民国家ははじめから戦争を愛し、庶民殺しを栄養素としているのだ。

🎵これまでの歴史を見れば、国民国家の成立と発展が(戦争と革命の歴史)の趨勢を加速し続けいるのは間違いない。生命が自己再生産するのに必要な、社会的な生活必需品、生産手段を確保できる十分な生産力があるとすれば、あとは奢侈品というより兵器、薬剤を生産し、資本蓄積するしかしょうがないの。500兆円の内部留保金で武器生産、ウクライナへ輸出できれば、株主配当も増やせる。しかし、ウクライナ停戦となれば、朝鮮有事を計画せねば。国民国家であるかぎり、戦争は資本のソールフードなのだ。

♬想像してごらん、国などないんだと。そんなに難しくないでしょ、殺す理由もなく、死ぬ理由もなく、勿論、宗教もない。想像してみてごらん!みんながただ、平和に生きているってことを♪おそらく、この歌が流れた71年には、平和を願う心の中には、「国民国家の廃絶」という思想も存在していた。8月15日、ニクソンが涙を流してドルの兌換停止を宣言した時に、アメリカは間違いなく解体されるべきであったのだ。

💤資本制生産と国民国家は一卵性双生児である。多大な犠牲を払った新生ニホンは、軍事国家の部分を切り離した。切り離したはずであった。しかし、朝鮮戦争を機に、いわゆる逆コースとやらで再軍備を強要された。日本人が戦争責任について論議を回避し、國體護持=(資本制生産+国民国家)をうやむやに容認したことで、「あらゆる戦争は金儲けを目的に、庶民の犠牲を前提に国家が行う」を合意するには至っていない。

✋朝鮮-ベトナム-中東-イラク戦争等々われわれは第二次大戦後、いくどもの戦争体験を繰り返している。no war!反戦のプラカードを掲げ、イマジンを合唱するが、いまなお、戦争が止まない。ニホン人が戦争責任を忘れたように、イマジンを歌う人々はその歌詞の意味を考えることを忘れてしまったようだ。近現代史は戦争と革命の歴史だ。国民国家国家が廃絶されない限り、戦争はなくならない。いや、資本は自己増殖が苦しくなれば、自ら戦争を企図する。庶民の犠牲を前提にしてである。