フリック入力に挑戦中。


久しぶりにブログを書きます。


今夜は書き残したいことがあり、投稿を決めました。


人生再生12年、もうすぐ13年。

このブログを書いていた12年前と現在では、SNSの立ち位置も違ってきました。


羨ましい生活をアップする人。


一生懸命生きていることをアップする人。


前者に憧れながら、後者に共感して救われていた私も事実です。


溢れるほどの投稿を見続ける中できがついたことは。


一生懸命生きている人には共感。


どんなブログでも、その一点を読み取るように努力をして、ブログを拝見しよう。


たくさん美味しいものを食べ、それをアップする人もいます。


羨ましいと思いながら、そんな経験は自分には無理。


と落ち込む自分もいます。


一気一憂する自分に気が付きました。


ブログを見るクセは、クセなので簡単には治りません。

でも、色々なブログを見て、どう感じるのか?


これは比較的変えられる気がします。


この人は、美味しいものを食べて楽しく生きている。だけど、今現在は一生懸命生きてるのだろうか?


そう言う視点を持ってブログを見ていると、別の意味で見えて来るものがあります。


実は寂しくて、去勢を張って自己顕示欲を満たそうとしている人。


未来に希望を持って、頑張って生きて欲しいと、夢を提供している人。


その違いが見えて来るようになりました。





寒くなってくると、11年前のこの時期のことを思い出します。

 

もうすぐこのアカウントを開設して11年になるのですね。長いようなあっという間だったような…。この11年間で得ることが出来たかけがえのないものは「感謝」と「謙虚」ではないかと思います。

 

さて、本題に入ります。久しぶりにこのブログをUPした理由とは!?

 

2021年1月、フリーランスとして独立して9期が終了し10期目に入るのですが、株式会社としてスタートさせます。

 

昨日、久しぶりに北海道で暮らす長女と電話で話してそのことを伝えると…。

 

「応援してる!かんばって!」

 

長女は社会人になって4年目、会社のことや社会のことも分かってきている年齢です。子どもの頃の励ましとは違い、嬉しさも深く刺さって言葉を失ったほどでした。

 

法人化して何をするの?

それは仕事用の公式ブログで後々発表します。

 

11年前の私は6,000万円の借金を抱え無職。家族と離婚し、会社を辞めたとたん今まで寄り添って下さった人たちもみんな離れていきました。自業自得とはこのこと。それでも家族や友人、その後に出会った人たちに支えられて再生計画を実行し今があります。

 

ざっくり12年と言えば干支が一周するほどの長さだから短い時間ではないけれど…。満を持して来年からこのブログで言う「再生計画」を一歩前進させます。

 

11年前とは違って令和に入り、時代も大きく変わりました。時代の変化に合わせながら自分も変わっていきつつも、芯はブレずに生きていくのは大変です。でも多くの日本国民が大変な中で汗を流して精いっぱい生きているわけです。

 

この11年間で得たものは「感謝」「謙虚」そして「誠実に一生懸命生きていれば誰かが見ていてくれてチャンスは必ず来る。」ということ。人生100年時代、50歳を手前にそこからの12年を作る土台が出来ました。

 

と、決意表明みたいなことを書き残し、2020年残り2か月間で準備を進め、来年の一歩前進に近づけたいと思います。

さて、何年ぶりのログインになるのでしょうか。

遅い昼食を食べながらこの動画を見ていたら、このブログを書いていた頃を思い出しました。

 

https://creators.yahoo.co.jp/nakagawaayumi/0200066505

 

ここから書くことは私の感想です。感想は見た人の数だけありますし、決してこの感想が「世の中こういうものだ」と決めつけているものではありません。ものを述べる時の前書きが多くなりました。10年前のこのブログを書いていた頃から見てもおじさんになったし、その分保身も強くなったのかもしれません。

 

貧困、経験ありますか?

私は「ある」と思っていた一人です。ちょうどこのブログを書いていた頃、いやむしろこのブログを終了した後の方が実はこの映像に近い生活だったように思います。特に「孤独」という面では…。

 

今からもう11年になるのですね。私は10年勤めた会社を辞めて離婚、北海道から東京へと上京しました。多額の借金を背負い、その借金をどう返してゆくか、これが当時の最大の課題でした。そして借金と収入のバランスが大きく崩れると、人というのは判断力が狂い、悪循環へと進んでいくこともこの時期に経験して学んだことだと思います。

 

この映像に出てくる人と私の差は「出会い」だったのかもしれません。

上京する時に頼った友人T社長

友人T社長から紹介してもらったどりママ

異業種交流会で出会った本田さん

当時暮らした練馬でお世話になった万きち先生

 

転落する人生?当時はそんな心情も自分の中にありましたし、何よりも家族を失った孤独で苦しんだ日々を思い出します。そんな中で励ましてくれただけでなく、具体的に再生の道のりを示してくれたどりママや友人T社長は大恩人と言えますし、今も感謝は尽きません。

 

どりあんでバーテンと送迎係の仕事をしたのが半年間、その後は猛暑の都内をポスティングの仕事をして生活を維持しようと仕事を変えましたが…。全て支払いで稼いだお金は無くなる。食べたいものを食べるお金もなく、どりあんを手伝っては食事を出してもらい、私を見かねた友人T社長は私の夕食と居酒屋に呼んでくれたりと、出会いがあったことで私は飢え死にすることはありませんでした。

 

所持金が30円、のどが渇いて仕方がなくて公園の水を飲んだら異臭がして飲めなくて…。財布にあったTカード、幸いTポイントが180ポイントほどあったので、そのポイントで買った発泡酒がとてもうまかったことを今でも覚えています。光熱費を削るために、真夏の暑い日の夜は公園の水道で体を洗う、そんなことも普通にありました。貧困人生、そう思ったのも事実です。

 

でもこの映像に出てくる人たちは私の貧困よりも大変なのが分かりました。何よりも孤独だったということ。私ももしあの時孤独だったら、もしかしたら生きていなかったのではないかと思います。

 

話は変わって私は練馬で一年半ほど貧困生活を送った後、友人T社長の会社で一年働きました。その後は今暮らしている池袋へと移転して、現在のライター業を始めました。フリーランスとしての独立です。実はこの独立から3年ほどは、本当に孤独を感じる生活だったと思います。全てをネガティブに捉え否定し、人が信じられなくなりました。その頃のことも書いてみたいと思います。

 

幸いにも保険会社のコールセンターで準夜勤のバイトをしていたので、家賃だけは払えました。この家賃というのは34,000円ほどです。光熱費込、シャワー室とトイレ・台所は共用ですが、光熱費込というところに惹かれて借りて住みました。そうしたのはもう公園の水道で体を洗いたくないと考えたからです。

 

ところがその共同アパートの部屋は3畳一間、トイレはいくら掃除しても同居する住人たちが汚し放題、台所も同じ。料理を作る前に掃除するだけで疲れて、しまいにはコンビニでキャベツの千切りを買ってきて格安の焼酎を水で割ってちょびちょび飲むという一日一食生活でしのいだ時期もあります。体重は今よりも10キロ以上痩せ、高校生の頃の体重まで落ちたと記憶しています。

 

こんな状況の生活でしかもフリーランス、人とのつながりはありません。バイト先は大企業のコールセンターでしたが、数百人の人間がワンフロアに集まって仕事をしていました。それでもそれらの人たちとの横のつながりはありません。交わされる言葉は業務連絡のみ。あとは電話をかけてくる人たちとの会話だけ。こういう生活が2年以上続いた時のことです。

 

全てが嫌になり、投げ出したくなりました。路上生活をしてもいい、もうすべてを投げ出して楽になりたい。究極の孤独に陥りましたが、唯一救われたのは雨風がしのげる3畳1間の部屋があったことです。投げやりになって寝ていると、死んだ祖父が出てきて説教するのです。その説教で目が覚めた部分もあり、もう少し頑張ってみようと踏ん張ることが出来ました。

 

こうしてギリギリのところで踏ん張ることが出来たのが、私の幸運だった点なのかもしれません。その後、今の新聞社の仕事を請け負うこととなり、年々信頼を得て収入も上がり生活水準も戻すことが出来ました。もちろん今も10年前に背負った借金は返済し続けています。

 

この10年間の中で何か一つでも歯車が狂えば、私も貧困弱者になっていたと思います。貧困弱者の映像を見て、自分に出来ることは何かないかと考えたりもします。こうして長文を書けば何か思い浮かぶかと思いましたが、サッパリ思い浮かびません。

 

ただ一つ言えることは、弱者の流儀として自分が弱者であることを認めること。とても大変だとは思うけど、セーフティーネットに連絡して人と話をすることはして欲しいということ。話すことで何かが見えてくるかもしれない。話すことで気持ちに変化が現れるかもしれない。そのことだけは貧困弱者と思い込んでいた経験から言えます。

 

コロナウィルスで職を失い路頭に迷っても、セーフティーネットに頼ることはして欲しい。頼った結果どうなるか分からないけど、頼らないで生きるよりは何かきっかけになることが見えるかもしれない。人はそんなに強い生き物じゃないということは私も経験で学んで知ってるつもりです。貧困弱者の背景にある本質は孤独、セーフティーネットに連絡することで、この国に住む限りは孤独じゃないことは知ることが出来る筈です。

 

2009年9月30日、私は15年間暮らした「北海道」を離れ上京しました。
あれから4年半近くが経過しています。

根拠の無い自信と精神論の下、東京での活動を開始。
夢はあっけなく破れ、路頭に迷っていた時期がありました。
その時の記録がこのブログです。

地位、名誉、家族、全てを「自らの意思」で失った私に「再生への道しるべ」を示して下さった大恩人「どりママ」の事を記したいと思います。

東京都練馬区谷原にある飲食店「どりあん」
大恩人「どりママ」は「どりあん」の代表です。
2014年1月31日「どりあん」は40年の長い歴史に幕を閉じました
閉店と同時に「どりママ」は引退され、今日(2月9日)娘さんと暮らすため練馬を離れました。

「どりママ」の旅立ちに際し、大恩人への思いを記したいと思います。

続きはこちらから⇒ 大島克之40歳からの人生
新年、明けましておめでとうございます。

このブログを終了してからもうすぐ3年が経過します。連載中は多くの方々に見に来て頂きありがとうございました。練馬のともの再生日記を読むと本当に大変だった時期を思い出し、常に自分の原点を見失うことなく生活することができています。日記ってすごいですね。

さて、わたくしですが現在はフリーのコピーライターとして活動中です。
website⇒http://profile.livedoor.com/ktyk_ohshima/

日記連載中登場の友人T社長は、益々の会社発展を成し遂げています。私とは月とスッポンどころか、太陽と道端の石ころくらいの差が生まれています(^^ゞそれでも彼とは変わらず友人関係を続けています。相変わらず面倒見の良い彼は超多忙を極めていても気にかけて連絡をくれます。

また大恩人のどりママ。どりあんは現在ランチタイムの営業もしています。私も月に1回程度ですが昼食を食べに行っては色々と話しを聞いて頂いています。ちなみにお酒を飲むのをやめましたので、夜の営業時間は行かないと思います(^^ゞ

このブログは年に1,2回程度しか更新をしませんが、当時支えて下さった方々に元気でいることだけはお伝えしたいと思っています。


2014年が皆様にとって良い年になりますように!
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。